2010年11月7日(日)

「死といのちのめぐみ」

聖書箇所:マルコの福音書14:22-25

主の晩餐に関わるみことばから、「聖餐」について考えます。
Ⅰ.主の晩餐が聖餐の起源 
「聖餐式」は教会において「洗礼式」と並んで最も重要とされる儀式です。 主ご自身が十字架にかかられる前夜、弟子たちとの最後の晩餐の席上、イエスさまはパンとぶどう酒をご自身のからだと血に結びつけ、弟子たちにそれらを飲食するように勧められました。「聖餐」は主の晩餐において、それを守るように命じられたイエスさまの言葉に直接の起源を持ちます。 主の晩餐に関する記述はマタイ、マルコ、ルカの共観福音書とコリント人への手紙第一の4箇所にあります(マタ26:26-29、マル14:22-25、ルカ22:14-20、Ⅰコリ11:23-26)。
最も古い記録であると言われているマルコの福音書14章22節-25節をお読みします。
「それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしのからだです。』また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼に言われた。『これはわたし契約の血です。多くの人のために流されるものです。まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。』」
22節に「取りなさい。これはわたしのからだです。」とありますが、イエスさまはパンをわたしのからだであると言われました。この表現が文字通りの意味で言われたことなのか、それとも象徴としての意味で言われたのかは、解釈が分かれるところです。あなたはどのように理解しておられますか?
次にイエスさまは杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられました。

「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」(24節) 杯の中に入っているのはぶどう酒であり、イエスさまはこのぶどう酒をわたしの契約の血であると言われました。ぶどう酒が文字通りのイエスさまの血であるのか、それとも象徴的な表現なのかも正しい理解が求められます。旧約時代における契約は、家畜などの血が流されることによって結ばれました。そして、新約時代における新しい契約は、イエスさまの血が流されることによって結ばれました。イエスさまの契約の血を飲む者は、救いの恵みにあずかることができるのです。

Ⅱ.聖餐式の変遷
私たちは聖餐式に先立って「聖餐とは何なのか?」「聖餐をとおして、どのような恵みにあずかることができるのか?」について、改めて問い直す時を持ちたいと思います。
イエスさまの「わたしを覚えてこれを行いなさい」(ルカ22:19など)ということばに端を発して、愛餐の交わりの中で聖餐が行われました。 初期においては、愛餐と聖餐の明瞭な区別もないままに行われていたようです。2世紀半ば頃までには、「礼典としての聖餐と親睦の食事としての愛餐は別々に持たれるようになり、聖餐は少なくとも主日ごとに、すべての教会において守られるようになってゆきました。やがて、聖餐式を「犠牲の儀式」と見る風潮が教会の正統的な教理となってゆきました。
「犠牲の儀式」とは、父なる神に対するキリストの自己犠牲、すなわち十字架の上でご自身ささげられたキリストのみわざをただ覚えるだけではなく、実際にそれを秘儀的に繰り返して行っていくのが「聖餐」だとする考え方であります。

この「犠牲の儀式」に伴い、3世紀までにはパンをキリストのからだそのものとし、ぶどう酒をキリストの血そのものとする見方が教会の正統的な教理となってゆきました。 実際に聖餐を受ける場合、一般信徒の場合には、パンとぶどう酒の両方にあずかるのではなく、キリストの血をこぼしたり汚したりすることがないようにという理由から、ただパンだけにあずかるという形が次第にならわしとなり、それがローマ教会では13世紀頃までには、完全に定着してゆきました。その際、神学的な裏付けとなったのがトマス・アクィナスを中心とするスコラ神学において、教義的完成を見た「化体説(けたいせつ)」でありました。「化体説」とは聖餐のパンとぶどう酒は、司祭の聖別によって本当にキリストのからだと血に変化するという説であります。このような理解に基づく聖餐は、犠牲の反復によって、キリストの功徳(くどく)にあずかるというものでありました。 死後の世界でよい報いを受けるように、善行を積み重ねてゆくというあり方は、初代教会の共同体的な晩餐のあり方とは、かなりかけ離れたものでありました。

16世紀の宗教改革において、このようなカトリック教会の聖餐式(ミサ)は、きっぱりと退けられてゆきました。宗教改革者たちは、犠牲の観念に基づいて聖餐を理解することを明確に否定し、「キリストとの福音的な交わりの場」として聖餐を理解しました。プロテスタント教会は、聖餐は「ひとつの記念であり象徴である」と考えました。宗教改革によってもたらされた教会は、聖餐式中心の礼拝ではなく、「神のみことば」を重んじる説教を中心とした礼拝へと変化してゆきました。

Ⅲ.聖餐に対する解釈の違い
しかし、カトリック教会の聖餐式(ミサ)が退けられたからといって、聖餐の理解が一致したわけではありませんでした。 代表的な宗教改革者であるルター、ツヴィングリ、カルヴァンの聖餐に対する理解も三者三様でありました。 この理解の違いは「これはわたしのからだです」の「です」という動詞を象徴的に解するか否かという点にありました。
1.ルターは「共在説」を説きました
ルターは「パンがキリストのからだに、ぶどう酒がキリストの血に変化する」というカトリック教会の考え方には反対しましたが、「熱せられた鉄の中に火があるように」キリストはパンとぶどう酒の中に共に現在(現存)すると考えました。
2.ツヴィングリは「象徴説」を説きました
ツヴィングリはルターの考え方に反対し、パンとぶどう酒は「象徴」であると考えました。彼は「パンとぶどう酒は、ゴルゴタで行われたキリストの犠牲を想起・記念させる『しるし』である」ということを強調しています。
3.カルヴァンは「霊的臨在説」を説きました
パンとぶどう酒における主の「からだと血」の現在(現存)は否定しています。しかし、パンとぶどう酒にあずかることで、神さまからの賜物をいただくことができると考えました。カルヴァンは、主は霊的に臨在しておられると信じていました。カルヴァンの考え方は、ルターとツヴィングリの中間に位置します。

Ⅳ.結 論
1.「聖餐とは何なのでしょうか?」
「聖餐」とはキリストが十字架前夜に、弟子たちとの最後の晩餐の席上で定められた礼典であります。
2.「聖餐をとおして、どのような恵みにあずかることができるのでしょうか?」
(1)イエス・キリストが私(たち)を罪から解放するために、十字架に死んでくださったことを覚えてパンとぶどう酒にあずかることです。
 パンを食べぶどう酒を飲むものに与えられる祝福は、主が私たちに命を与えるために、ご自身が血を流され命を投げ出されたということです。イエスさまの犠牲の上に、私たちの祝福があります。私たちはキリストの死を忘れないために、パンとぶどう酒をこの五官 (耳で聞くだけではなく、目で見、鼻で嗅ぎ、手で触れ、口で味わうこと)で感じ、目に見えるみことばとして、感謝しつつこれをいただくべきではないでしょうか。
(2)十字架に死に復活して、今も生きておられるイエス・キリストが、私たちと共におられる(臨在)こと覚えることです。 パンを食べぶどう酒を飲むことによって、主が霊的に臨在されておられることを信じ受け入れましょう。私たちは決して一人ぼっちではありません。主は私たちといつも共におられ、私たちの必要にこたえ、また助けてくださるお方です。聖餐式を通して主の臨在を覚え感謝いたしましょう。
(3)主のみからであるパンを食べ、主の血であるぶどう酒を飲むことによって、私たちはキリストにあって 一つ(の群れ)であると確信するのです。 私は、パンとぶどう酒はキリストのからだと血を「象徴」するものであると信じます。さらに、主が霊的に臨在されることも信じます。今も生きておられる主にあって、私たちはいのちをいただき、互いに愛をもって交わりを持ち、仕え合う神の家族、兄弟姉妹とされているのです。何とすばらしい恵みでしょうか。

最後に、私たちは謙遜であるべきです。へりくだって歩むべきです。
イエスの死が私に命をもたらした事実を肝に銘じ、心からの賛美を主におささげすべきです。主の御前にある敬虔さ、これは常に私たちに求められることではないでしょうか。
「死といのちの恵み」を覚えて、心からの感謝を主におささげいたしましょう。