2010年3月7日(日)

「処女(おとめ)マリヤより生れ」

聖書箇所:ルカの福音書1:26-38

多くの人々は「処女降誕」ということばを聞くと、ありえないと反応します。
しかしこの「処女降誕」は、それよりも700年も前に預言された神のみことばの成就なのです(イザヤ7:11)。「復活と昇天」そして「処女降誕」を否定することは、イエス・キリストの神性とその贖いのみわざを否定することになります。

聖書は神の御子がこの世に来られる時、神の御子はおとめマリヤの子として生まれてきたと教えています。またこの世から去られるとき、神の御子は十字架に死に復活し天に上って行かれたとも教えています。入場も退場も超自然的な力によってなされたのであります。イエスさまは人間でした。肉体を持ち、人間と同じように喜びや悲しみを味わい、働いて汗を流し疲れや空腹を覚える人間でした。しかし聖書はイエスが人間以上のお方であったことを明確に述べています。

教父たちはイエスが人間以上のお方であることを、「処女降誕」を証拠として用いました。それは、イエスは幽霊や御使いのように単に人間に見えるのではなく真に人間であられたということを証明するためでした。初代教会の頃から現代に至るまで、私たちは異端の問題で苦しんできました。イエス・キリストを神と信じない人々、人間と信じない人々がいつの時代にもいます。ある人々は「イエスは神であり、汚れている肉体を持つ人間になることはありえない。単に人間のように見えただけである。」と主張して「イエスの人性」を否定しました。ドケティズム(仮現論)という考え方です。この対極にあるのがキリスト人性説です。この説を唱える人々は「イエスの神性」を全く否定します。このようなドケティズム(仮現論)やキリスト人性説の誤りを証明するために、「主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ」と使徒信条の中にその一部として加えられたのです。

イエスさまは人間でしたが罪のないお方でした。どうしてイエスさまには罪がなかったのでしょうか。おとめからお生まれになられたからであります。イエスさまは系図の上ではヨセフの子であり、ダビデの子孫です。しかし、実際には聖霊によって宿った神の御子です。 ですから、「原罪」 と呼ばれる罪を受け継ぐことがなかったのです。その人間性は汚されず、その結果、イエスさまの行動、態度、動機、欲求は汚されることがありませんでした。新約聖書は「イエスが罪のないお方である」ことを強調しています(ヨハネ8:29,46、Ⅱコリント5:21など)。

イエスさまには罪がありませんでした。それゆえに、いったん御自身をいけにえとしてささげた後には、もう死はイエスさまを抑えつけていることは不可能でした。イエスさまの復活と昇天のみわざは、そのような背景の中でなされたのであります。聖書の教えである「復活と昇天」、そして「処女降誕」は信じるに値する真理なのです。

【結 論】
イエスさまは真の神であり、真の人間です。
私たちは「主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生れ」と二性一人格のキリストを、公同礼拝において明瞭に告白するのです。イエス・キリストを「神のただ一人の御子」と呼ぶことは、教会の教えと信仰の試金石です。

イエスを「神のただ一人の御子」と告白しないところから、異端(エホバの証人やモルモン教、統一協会など)が生まれてきました。イエス・キリストを「神のただ一人の御子」と教えること、信じることは、その教えと信仰を類稀(たぐいまれ)なものにします。