2009年11月1日(日)

「天地の創り主」

聖書箇所:イザヤ書45:9-25

ラテン語の使徒信条は、「我は信ず、全能の父なる神を、天地の造り主を」 と告白するそうです。日本語は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」となっていて順序が逆になっています。実は「天地の造り主」はあとで加えられたものだそうです。どうして「天地の造り主を信ず」という告白が必要になったのでしょうか。それは、創造論を弁護し、弁証するために生まれてきました。聖書は「初めに神が天と地を創造した」(創世記1:1)と、神が造られたことが明言されています。

今朝の聖書テキストであるイザヤ書45章は、神さまがペルシャの王であるクロスに語られた言葉であります。1節~10節は 「神はクロスに力を与え、険しい道を切り開き、彼に財宝を与えること」 が語られています。クロス王を選び用いられたのはイスラエルの神であることを、クロスが知るためでありました。11~13節は、「イスラエルの神は全地の創造主であること。この神がクロスを選び、イスラエルをバビロンから解放するために、クロスを用いられた」 ということが語られています。14~17節は、「イスラエルに与えられる勝利と永遠の救い」について述べています。18~25節は 「異邦人を招き、全地の救いを待ち望む神」 の姿が描かれています。イザヤは「イスラエルの神が、天地の造り主である」というメッセージを繰り返し強調しています(12、18節)。

「創造」という思想は、創造主である神と、被造物である人間や世界とを全く分けてしまう考え方です。創造主と被造物はまったく異なり、一点の連続もありません。その意味で、「天地の造り主」という告白は、単に「神が創造主である」というだけではなく、私たち人間が自分を「被造物である」と認めることに決定的な意味があるのです。

サタンの誘惑は、「神のようになる」ということでした(創世記3:5)。実際、創造主への信仰を持たない者は、自分を神の位置に据えています。日本人の持っている信仰とは、ほとんどの場合、神々に人間の求めを行わせるものです。人間の決めたことを行うのが神ですから主権者は人間であり、神はしもべです。人間が神の地位を占めているのです。それに対して、自分が被造物であると認めることは、自分が神に依存しなければ生きてゆけない存在であることを謙虚に認めるということです。

創造主と被造物をはっきり分けない考えでは、善と悪の区別も曖昧になります。「善悪を知る」という教えもまた、サタンの誘惑の言葉でした(創世記3:5)。本来、善悪は神の基準に照らして判断すべきですが、神を否定した人間は、自分が神となり、自分を善悪の判断基準とするに至ったのです。つまり、神に与えられた法 (のり = 他から与えられた規準・他律)を否定して、自分を法(基準)として歩んできたのです。自分自身がすべての判断基準なのですから、自分以上に 「善悪を知る者」 は存在しないでしょう。しかし、善悪を知る人間に善悪がわからないのです。皮肉なことです。

【結論】
「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、わたしについて、『ただ、主にだけ、正義と力がある』と言う。」(22-24節)

イザヤのみことばに心を止めて「我は天地の造り主を信ず」と、心からの信仰告白をする者とさせていただきましょう。