2009年10月4日(日)

「油注がれたダビデ」

聖書箇所:サムエル記第1 16:1-23

主の命令 (アマレクの聖絶) に聞き従わず、サウルは大きな罪を犯しました。主はサウルをイスラエルの王位から退けられ、サムエルもサウルが神から見捨てられたことを悲しみました。サムエルは神に命じられたとおりに、エッサイとその子たちを聖別し、彼らをいけにえをささげるために招きました。エッサイとその子たちがサムエルのところに来たとき、彼はエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」(6節) と思いました。しかし主はここぞとばかりに、サムエルに仰せられました。 「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(7節)

神は人々から相手にもされない一番末の子であるダビデに目を止められ、彼に油を注ぎました。兄たちが選ばれないで、ダビデが選ばれた理由は、いったいどこにあったのでしょうか。「主が心を見る」 とは、どういう意味なのでしょうか。人はうわべを見るが、主は心を見る」 とは、「人は自分の目に従ってものを見るが、主はご自分の心に従って見る」と理解することもできます。神さまがあわれみをもって見られたので、ダビデはきよいとされ、御心にかなった者として受け入れられました。ダビデの心が美しく完全であったのではありません。ダビデは不完全な弱い人間であったにもかかわらず、神に愛され、受け入れられたのです。

ダビデが選ばれたということは、選ばれなかった人々が背後にいることを考える必要があります。この事実は、時として人をつまずかせ、卑屈にさせます。しかし、神は人間がひがむような、不公平な見方をなさる方ではありません。神が私たち一人ひとりをあわれんでおられることは、絶対信じてよいのです。自分は選ばれていないというひがみは、不信仰です。これとは反対に、自分が選ばれていることで、自己満足に陥ることも、不信仰であります。エリアブではなくダビデが選ばれた背後には、主のご意思があります。神は外見や能力を見ないのではなく、外見のよい人や能力のある人でも選ばれる可能性があるのです。

【 結 論 】
今朝は、祭司サムエルから油注がれたダビデの姿をとおして、選びという課題を取り上げました。キリストは「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16) と、神が選びにおける主権者であることを明言しています。ダビデが王に選ばれたのは神の御心です。そして、私たちがクリスチャンとして選ばれたのも。未信者の皆さんは、まだ選ばれていないからと卑屈にならないで神を求め続けてください。クリスチャンは自己満足に陥り、高慢にならぬように(詩篇8:4)。

私たちにとって一番大切なことは、神は主権者であり創造主であることを信じて、神の御名を崇めること、また人間は被造物であり、従者であることをわきまえて、敬虔に生きることです(詩篇23:1)。