2009年6月7日(日)

「私が信ずる神」

聖書箇所:出エジプト記3:1-15

私たちクリスチャンは、信じるとか信仰という言葉をよく使いますが、皆さんはどのような意味でこの言葉を用いておられるのでしょうか。使徒信条の 「信ず」 という言葉はラテン語で 「クレドー」 というそうです。これが英語の「クレジット」 になりました。「信用する」「委託する」「貸す」 というのがもともとの意味です。つまり、「クレドー」 の意味はあるものを客観的に評価することではなく、「その相手に人間としての信頼をよせ、身を委ねること」 なのであります。しかし、日本語で「・・・を信じる」というと、あることがらを真実だと考え、疑わないことを意味しています。ときには、経験によって確かめられた事実であることもありますが、たいていは検証されていない非科学的なこととして低く見られています。

しかし、クリスチャンが「神を信じる」というのは、「UFOを信じる」「幽霊を信じる」ということとは全く違います。「信仰」 とは、神に信頼し、神に自分自身を委ねることなのです。その意味で「信託」というのが当たっていると思います。「・・・に信じる」「・・・に信託する」という言い方なのです。「私は神に信ず」これは、私は神さまに自分自身をお任せしますという意味であるといったらわかっていただけるでしょうか。

使徒信条の 「信ず」 には、「・・・に信ず」のみではなく、「・・・を信ず」もあります。「・・・に信ず」は、①我は天地の造り主、全能の父なる神に信ず。②我はその独り子、我らの主、イエス・キリストに信ず。③我は聖霊に信ず。という3つがあります。しかし、「聖なる公同の教会」以下に告白される5つの事柄は、すべてが 「・・・を信ず」であります。また、主イエス・キリストを説明している「聖霊によりてやどり」に続く9つの事柄も、同じように「・・・を信ず」であります。こうしてみると、使徒信条は、神とキリストと聖霊とに対する3つの 「・・・に信ず」 を幹(主)とし、14の 「・・・を信ず」を枝(副)としてできていることがわかります。

その意味で、使徒信条を唱える者は、自分の意志で信仰の告白をしていることを意識すべきであると思います。「おまかせの信仰」 ではなく、「主体的な告白に基づく信仰」 を持つべきであります。 三位一体の神に身を委ねると共に、自分がいかなる事柄・対象を信じているのかしっかりと心に止めて、信仰を告白すべきであります。

さらに、私たちが信じている対象は「わたしは、『わたしはある』という者」(出エジプト記3:1-15)いう全能の主なのであります。私たちが何を信じているかは、とても重要なことであります。(一部を省略しました)

【 結 論 】 
私たちは神に信託して、持てるものすべてをささげなければなりません。仕事も、趣味も、お金も、財産も、時間も、賜物(才能)も、知恵も、力も、家族も、身体も、心もそして自分自身もささげなければなりません。私たちは使徒信条の告白をもって、神への献身を新たにし、これを主に誓うのであります。

(参考文献:「これだけは知っておきたい使徒信条」櫻井圀郎著 CS成長センター刊、
「私たちの信仰告白使徒信条」J.I.パッカー著 いのちのことば社刊、から引用しました。