2009年5月3日(日)

「我、神を信ず」

聖書箇所:使徒17:16―34

パウロがアテネを訪問した時、彼はアレオパゴスの丘の真中に立って、ギリシヤ人に宣教しました。そこは数多くの神々で満ちていました。彼らは哲学に秀で宗教にも熱心でしたが、信仰の対象を知りませんでした。
日本人の信仰はギリシヤ人のそれによく似ています。宗教心に篤いのですが、正しい神観を持っていません。「知られない神に」ではありませんが、神のことを知らずにそれを信じているのです。「私たちが信じている神はどのようなお方なのか」を知るために、私たちは「使徒信条」について継続して学んでゆきます。「使徒信条」は現在伝えられている信条の中では、もっとも古いものです。今日の形に定まったのは8世紀頃、古い形としては2世紀頃までさかのぼるそうです。櫻井圀郎先生の教えを参考にしてお話いたします。

「使徒信条」は、ラテン語で「クレドー」という語で始まります。 わたしは信じる」という意味です。「信条」 のことを、ラテン語では「シンボルム」と言います。 英語の「シンボル」はここからきましたが、本来の「信条」という意味はあまり使われていません。むしろ、「象徴」「記号」「符号」などの意味で使われています。「シンボルム」というラテン語のもとをたどると、「シュンボロン」というギリシヤ語に至ります。「シュンボロン」(名詞)は、「シュム(ともに)」と 「バロー(投げる)」という二つの語が合わさった 「シュムバロー(一緒に投げる)」という語 (動詞)が変化したものです。書き記された象徴や記号ではなく、一人ひとりの口で告白された「信条」こそが、キリスト信仰を象徴するもの(シンボル)であり、キリスト者であるしるし(シンボル)であると、多くの先達は信じていました。

また 「我は・・・」 と告白する私が向き合う相手は、神御自身でありました。つまり私の神に「我の信仰」を告白し、神の召しに応える。それは、神と私との間の契約であります。まわりの人々に合わせるのではなく、私が主体となって神の御前に自分の信仰を言い表すのです。 契約は当事者相互の意思と意思の一致によって成り立ちます。神との契約は、神の 「呼びかけ」に対する人の応答」によって結ばれます。

私たちに求められているものは、神の呼びかけに対する応答です。まわりの人々との一致ではありません。キリスト者一人ひとりと神との間で契約が結ばれ、同じ神との契約関係にある人々が結び合わされて、群れとされたのが教会であります。人間の意思によって作られた団体ではなく、神に呼び出された人々の集まりが教会なのであります。

【 結 論 】
契約としての 「使徒信条」。それは、最高規範である聖書に基づいた信仰告白です。よって、「ただ聖書だけ信じていれば、他に何も必要ない」という考え方と矛盾するものではありません。もちろん、聖書の教えに基づいて、使徒信条の告白があることは言うまでもありません。「我は、神を信ず・・・」と聖書の教えに従って、私たちは今日を生きようとする信仰の決意を明瞭に述べようではありませんか!