あなたに伝えたいメッセージ



あなたにどうしてもお伝えしたいメッセージがあります。
それは世界のベストセラー「聖書」があなたに投げかけるメッセージです。



「あなた」という存在は、神さまが造られた最高傑作!

聖書はこのような言葉で始まります。
「はじめに、神が天と地を創造した。」(創世記1章1節)

あなたは太陽を誰が造ったと思われますか?夜空に輝く星を見て、海を見て、山を見て…それらは誰が造ったと思われますか?人間がそれらを造るのは不可能です。

こんな歌があります。「美しいこの空を 愛らしいこの花を 浮かんでる白い雲 香りよき青草を じっと眺めるだけで ただ眺めているだけで ほら、君もわかるでしょう 神さまがわかるでしょう」

神さまは創造主ですから、「無」から「有」を生み出されるお方です。私たち人間を造ってくださったのも神さまです。

これは出産されたご経験のあるお母様ならよく理解できると思いますが、何もなかったところに命が芽生え、体内で成長し、その小さな命の中に心臓や脳やあらゆるものが備わることって、奇跡ではないでしょうか?

人間が自らの意思でそのようなことをコントロールして造りだすことは不可能です。まぎれもなく、神さまがあなたを造られたのです。神さまは、文字通り神さまなのですから、失敗作品なんてありません。あなたは神さまの最高傑作品、そして愛される存在として命が与えられたのです。

「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世(※)を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節 ※「世」は「あなた」と置き換えて読んで下さっても構いません)

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43章4節)
と、聖書にある通りです。

また、あなたを愛する神さまは、あなたのために祝福にあふれた豊かな人生の計画を用意しておられます。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

人生の中で、「何故こんな事が起こるのか…」「自分は不幸だな…」と感じる事はないでしょうか?
しかし神さまに信頼して歩んでいくなら、必ずどんなマイナスにみえることもプラスに変えられていきます。



聖書に記されている「罪」の本来の意味を知ろう

人間は本来、神さまの愛を受け、幸せに生きる者として創造されました。

それなのに、人間は自分自身を造って下さった神さまを無視し、「神など必要ない」「神が目に見えたら信じてもいい」「そんなもの信じない」等という思いをもちました。
神さまに背を向けた自己中心的な生き方、これこそが聖書が教える「罪」です。

聖書に出てくる「罪」という言葉は、原文では「的外(まとはず)れ」という意味の単語が用いられています。
つまり「罪」とは、本来神さまが私たちに用意して下さっている祝福を失うように導く、また祝福からそれた的外れの道に導く、実は恐ろしいものなのです。

神を無視する、ある人を赦せない、憎しみ、妬み、人のものを盗む、嘘・偽り、また習慣的な不純な行いを繰り返してしまう…等々、それらの罪をそのままに放置していて、
心がすっきり幸せに祝福に向かって歩めるはずがありません。

私たちの人生(または心)はその罪によって傷つき、暗くなっていきます。
そして「罪」は見えない鎖で徐々に心をがんじらがらめにし、自由を奪い、祝福とはかけ離れた的外れの方向に人生を導くのです。

また、「誰だってそれぐらいの事してるから…」「他人にバレなければ…」と、見抜けにくく、抜け出しにくいのもまた「罪」の特徴です。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。」(ローマ人への手紙3章23節)

「罪から来る報酬は、死です。」(ローマ人への手紙6章23節)

神さまの愛や祝福を受け取ることができないだけでなく、もしそのまま人生を歩み、いつか肉体が朽ち果てた時、「報酬は死」だと聖書は語るのです。この「死」とは永遠の滅びのことを指します。

でも安心して下さい。やはり神さまは愛です。そんな罪深い私たちのために救いの道が用意されています。



身代わりの愛。それがイエス・キリストの十字架

聖書は、「真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネの福音書8章32節)と教えます。
「真理」は「罪」の問題を解決し、私たちの心を本当の自由に導くというのです。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを 通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネの福音書14章6節)とイエス・キリストが言われた通り、「真理」=「イエス・キリスト」なのです。 このイエス・キリストだけが救いへの道なのです。

イエス・キリストは十字架にかかって死なれました。

何もイエス・キリスト御自身が罪を犯したから、悪いことをしたから十字架にかけられたのではありません。
イエス・キリストは私たちの罪を負って、私たちの身代わりとして、十字架の上で死なれました。

イエス・キリストは、自分のことを馬鹿にし続ける人々を前にしてなお十字架上で「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのか、分らないのです。」と祈られました。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」 ペテロの手紙第一2章24節                              

命がけで私たちを愛してくださった、その身代わりの愛が十字架には詰まっているのです。

イエス・キリストこそが罪の諸問題を解決して下さるお方です。あなたも、イエス・キリストによって、罪からの解放・神の愛を受け取ってください。



復活の恵み。だからクリスチャンの葬儀には希望が溢れる。

イエス・キリストは十字架の上で死なれ、墓に葬られましたが、預言通り3日目に墓より復活されました。
この「復活」には非常に大きな意味がありました。

やがて人間に必ず訪れる肉体的な死の問題をイエス・キリストが打ち破られたのです。
イエス・キリストの十字架を信じて罪赦され、復活を信じる者には、永遠の命(復活の命・天国の恵み)が与えられるのです。

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』」(ヨハネの福音書11章25節)

教会では冠婚葬祭が行われます。
結婚式はただただおめでたいのですが、やはりお葬式は淋しく悲しいものです。

しかし、クリスチャンの葬儀は悲しいだけのものではありません。そう、復活があるからです。信じているからです。

やがて天において再会出来る喜びと希望を胸に皆で賛美し祈るその光景の中には、何ともいえない神さまの愛と祝福が溢れているのです。

繰り返すことの出来ない、一度しかないこの人生。
あなたを造られた神さまを信じ、イエス・キリストの十字架の愛と復活を心に受け入れ、祝福に溢れた人生を、そして永遠の命への歩みを共に始めましょう。







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