3 聖霊との交わり


聖霊様は、人格を持っておられます。
対人格には交わりという言葉を使います。
人間同士交わりができるのはもちろんですが、植物や動物とも人間は交わりができます。
それは、神様が造られた同じ被造物だからです。

しかし、動物と交わろうとすれば、動物の考え、動物の性格、
動物が持っているものを私たちが研究しなければ交わる事はできません。
また、植物と交わるためには、植物がもっている属性を知らなければ交わる事はできません。
ですから、神様が人間と交わるためには、人間の考えの中に入らなければなりません。
これは霊を通してはいる事ができます
もちろん、肉を持て来られたイエス・キリストは、肉を持っている人間と交わる事ができました。
私たちがミミズと交わろうとすれば、ミミズにならなければ完全な交わりはできません。

それを考えますと、イエス・キリストがいと高きところから私たちのために、


本当は神としてはそんな事であるのに、
人間のためにただ一方的な愛を持ってこの世に現れたのは、これ以上考えられない恵です。
これ以上の恵はありません。

Uコリント 13:13に、
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」
と書かれています
ここでは、「主イエスキリストの恵」と言う言葉と、
「神の愛」「聖霊の交わり」という三つの言葉が要点であり、中心です。
私たちに大きな感動を与えるこの三位一体なる神様の祝福は、
毎礼拝で牧師先生を通して行われます。
個の祝祷は、どの国でも規則で牧師の按手をもらうまではしてはいけない事になっています。
これは、主の権威に基づく事だからです。

ところが、この偉大な感動が教会からだんだんなくなっています。
それは、三位一体なる神様の働きを人間が信じないからです。
今の時代、特に聖霊様に対する信者の態度は、神様として歓迎も認めも受け入れもしていないのです。
「イエスキリストの恵」は強調します。
「神の愛」も強調します。
教会の看板には、「神は愛なり」と書かれていますし、車にも書いてあります。
「イエスの恵」も強調されます。
祈りの中で「イエスの恵」は何度も用いられます。
しかし、礼拝が終わる時の祝祷を除けば、「聖霊の交わり」という言葉はほとんど使われません。
けれども教会は、聖霊の交わりを通して成長します。
大ききなります。
それなのに、「聖霊の交わり」という言葉はみんな省いて自分の好きな言葉だけを使っています。
ですから聖霊様は、「教会が成長するかどうか自分なりにやってみなさい。」と黙ってみておられるのです。

聖霊様は、私たちと交わりをする人格者であられます。
ですから、私たちが聖霊様と交わりを持たなければ、教会の成長はありえません。
教会は特別に聖霊様に対して、いつも、毎日のお祈りの時に

「私は聖霊様を歓迎いたします。
認めます。
受け入れます。
従います。
今、ここに臨在して、風のように、火のように、活ける水のように、
使徒行伝2:1〜4に
『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』

と書いたあるとおりに働かせてください。」

と祈るべきです。
人格者として認め、受け入れ、人格者として話せば、
聖霊様は人格を持っておられますから、あなたが私を招待するなら行こうと、働いてくださいます。
ですから、ハレルヤ・チャーチでは、必ず聖霊様の働きを見て恵まれる、
成長させていただく教会になるために、
セ霊様を歓迎し、認め、受け入れましょう。
恵みがないと教会は成長しないのです。
教会に出席しながら霊的に死んでいる人たちが多くいますが、
私達はそうであってはなりません。
聖霊様との交わりを通して、変えられて行く教会であり、クリスチャンでありましょう。

イエス様が昇天されて後、聖霊の時代が開かれました。
この聖霊の時代には、聖霊様が私たちと交わりができると聖書に書いてありますから、
私達は三位一体なる神様の働きについて考えなければなりません。


(1) 主イエスキリストの恵

恵はギリシャ語でカリス(Chars)と言います。
その恵を通して私たちが賜物の運動をする時、カリスマ運動と言う言葉を使いますが、
恵を通して与えられた神様の送りものが、「賜物―カリスマ」です。
この恵には三つの意味があります。



@物事の中にある美しい品性が、それを見、聞く人に喜びを与える時、それを恵と言う
あるものを見て、美しい品性がこれを見るとき、「素晴らしい」
またこれを聞くときに「一度見てみたい」
このように人に喜びを与える時、それを恵と言います。
日本では他国と違って、たとえば「今日は天気に恵まれた」と言います。
雨が降るかと思ったけれども天気に恵まれて素晴らしい野外礼拝ができた。
そのような時に「恵み」という言葉を使います。
これはある面ではギリシャ人と日本人のつながりを示しているのかもしれません。

A報酬や報いを少しも期待しないで、ただ豊かな慈愛を持って好意を施す時、それを恵みという
私たちが会社に勤めて、お金のために働く時、恵みという言葉は使いません。
ただ豊かな慈愛を持って、好意を施す時、
ただ一方的な愛を持って施すときに、それを恵みといいます。
例えば、神様がひとり子でいらっしゃるイエス・キリストをお与えになった。
これは愛という言葉を使いますけれども、これが恵みの自発的な行いです。

B一般的な行動を超える美徳を行い称賛、それを恵みと言う
一般的な考えや当たり前のことではなく、
思いも付かないような素晴らしい、遥かに人知を超えた美徳があります。
このような時、恵み(カリス〉という言葉を使います。
イエス・キリストの働きには、最初から最後まですべてに素晴らしさがあります。
だから「イエス・キリスト」の豊かな恵みがありますように。」と祈ることができるのです。


(2)神の愛

神様の愛については、ヨハネ3:16に
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである」
と詳しく書かれています。
けれども、愛にはどのような意味があるのでしょうか。

聖書では愛という言葉には、
「ストロゲー」、「エロス」、「フィオレ」、「アガペー」の四つが出てきますが、
ギリシャ語にはもう一つ「エピュトミア」という単語があります。
「エピュトミア」は動物的な本能の愛です。
動物が持っている愛、性的本能を「エピュトミア」と言います。



@ストロゲー (父母性愛)
「ストロゲー」は、父母の愛です。
父母の愛は素晴らしいものです。
親の心子知らずで、子供達は親の考えを知らずに自分勝手にしますが、
でも、親は子供を愛します。
深い愛です。
しかし、この愛には制限があります。
愛するのは自分の子供だからで、他人の子供は愛せません。
完璧な愛ではありません。


Aエロス (男女間の愛)
多くの人が「エロス」と「エピュトミア」を混同していますが、「エロス」は男女間の愛です。
これは、思春期になるとだれもが防ぐ事ができません。
例えば、ある男性がある女性を好きになりました。
夢中になり、結婚したいと考えました。
愛が満ち溢れて結婚しました。
けれども、ある程度一緒に住んでみると飽きてしまいました。
そこで別れるために離婚の手続きを取りました。
これが「エロス」です。
自分の益になると愛します。
そして自分が損をすると思うと足を抜きます。
そして自分と関係がなかったかのように離れていきます。
これが「エロス」です。


Bフィレオ (友愛)
「フィレオ」の愛ですが、フィラデルフィアという地名はこれから来ています。
兄弟愛、友愛という意味です。
友だち関係の愛です。
これも素晴らしい愛です。
例えばダビデとヨナタンの愛、これは男女の愛(エロス)よりも勝れた愛であったと聖書に書いてあります。
これは素晴らしい愛ですが、限りがあります。
友達関係、親友関係には限りがあります。


Cアガペー (神の愛)
「アガペー」の愛は、神の愛です。
一方的、永久的、変わらない、比べることができない、
どんな言葉を入れても表現する事ができないほど素晴らしい愛が、「アガペー」の愛です。
この愛を持って神様はイエス・キリストを私たちにくださいました。
「神は愛なり」
「神は実に世を愛された」

これをアガペーという言葉で表現します。



「ストロゲー」、「エロス」、「フィオレ」、これらの愛は素晴らしい愛ですが、限界があります。
しかし、「アガペー」の愛には限界がありません。
ですから、アガペーの愛に基づいて、その上に「エロス」「フィレオ」「ストロゲー」の愛があるならば、
素晴らしい愛になります。
アガペーを除いて、「ストロゲー」だけ、「エロス」だけ、「フィレオ」だけの愛は、
聖書の教える愛ではありません。
ですから、神様の愛はこのように深い意味があるのです。


(3)聖霊の交わり


@交わり
交わりは、ギリシャ語で「コイノニア」と言います。
「コイノニア」には三つの意味があります。
一番多く使われているのが、「交わり」の意味です。
これは聖霊様との、神様との交わりです。
これは英語で「フェローシップ(fellowship)という言葉が使われます。
同じ心でなければフェローシップは出来ません。
長く続けてフェローシップするためには、「同じ心」、「一致した心」、「同じ目的」、を持たなくてはなりません。
Uコリント13:13の「聖霊の交わり」には、「コイノニア」が使われています。

そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、
私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。
それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。

(ガラテア 2:9)

私は、キリストとその復活の力を知り、
またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、

(ガラテア 3:10)

これらの聖句でも同じ言葉が使われています。


A同業
もう一つの意味は、「同業」ということです。
英語では「パートナーシップ(partnership)」と言います。
 
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。
イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。
これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」

(ルカ 5:10)

私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。
私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。

(Tコリント 10:16)

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

(マタイ 28:18〜20)

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、
および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

(使徒行伝 1:8)

さて、アンテオケには、そこにある教会に、
バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、
国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。

(使徒行伝 13:1)

これらの聖句は、「パートナーシップ」を意味します。
これはある団体や集まり、クラブの中に一緒の入って同業となる、参加することで、
「コイノニア」のもう一つの意味です。


B一心同体
更にもう一つの意味は、「一心同体」という意味です。
英語で「ユニティー(unity)」という言葉が使われます。
これは完全に一つになる事です。
「フェローシップ」を通して「パートナー」となり、「パートナーシップ」を持って進むうちに、
単なるパートナーではなく、「一心同体(ユニティー)」まで行きます。
これが「コイノニア」の段階であり、「コイノニア」の意味です。
聖霊様と私たちがコイノニアすると言う事は、
一度聖霊様と交わると、私たちには益となります。(ローマ 8:28 参照)
ですからもっと深く、幅広く交わりたい。
すると聖霊様は、「度々会いましょう」と言って、パートナーシップを持ってくださいます。
そして、パートナーとして一緒に歩むと、私達は使命を果たすことになります。
私たちが立派に使命を果たすと、
聖霊様が、「私はパートナーを超えて一体となるのだ」とおっしゃいます。
ですからその日になると、神が私たちの心の中に、
そして、神様の中に私たちがいるようになると、イエス様が約束なさいました。
真理の御霊が私たちに臨まれる時これが出来ると、聖書に書いてあります。(ヨハネ 16:13〜15 参照)


これが「コイノニア」の意味です。
ですから、聖霊様との交わりというのは素晴らしいのです。
それで、聖書的に考えると、この聖霊様との交わりなしには、
教会成長とか、伝道活動とか、信徒の活動は出来ないという事になります。
私達は聖霊様と深く交わりを持ちましょう。



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