2015年3月29日  受難主日  マルコ福音書15章33〜39
「主イエスさまの受難」
  説教者:高野 公雄 師

  きょうは、マルコ15章1〜39を出席者全員が受難劇の形式で朗読しました。
  マルコ15章はイエスさまが死なれた決定的な1日12時間を、3時間ごとの4つに区分して物語ります。夜明け(午前6時)から午前9時までの間に、イエスさまは最高法院で判決を受け、ピラトの法廷で裁かれ、鞭打ちと侮辱を受け、刑場へ引かれて行きます。午前9時に十字架につけられて、激しい苦痛の中で通行人や祭司長たちの侮辱にさらされます。正午から3時間にわたって全地が暗くなり、午後3時にイエスさまは絶命されます。それから日没(午後6時)までの3時間の間に、イエスさまの遺体は十字架から取り下ろされて墓に葬られます。
  朗読した個所は長いので、ここでは33〜39節にしぼって、イエスさまの受難が私たちに意味することを聞きましょう。

  《昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた》。
  イエスさまが十字架上で死なれるとき、3時間にわたって闇が全地を覆いました。この暗闇の意味は、聖書(旧約聖書)から読み取ることができます。福音書はイエスさまの死に関わる出来事をすべて聖書の成就として語っているからです。
  聖書、とくに預言書においては、闇とか暗黒は神の裁きを象徴します。光の源である神がみ顔を背けるとき、世界は暗闇に陥ります。神が最終的に世界を裁かれる日には、暗闇が世界を覆います。預言者たちは繰り返し裁きの日の暗闇について語っています。たとえば、《その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする》(アモス8章9)。
  このような聖書の背景から見るとき、マルコは全地に臨んだ暗闇を語ることによって、イエスさまの死を終末審判の文脈に置いていることが理解できます。いまイエスさまは十字架の上で息絶えようとしていますが、この出来事は神の最終的な裁きの到来という終末的な意味をもつことを、この暗闇は指し示しているのです。そして、この裁きの闇は同時に、イスラエルがエジプトから救出されるときにエジプト全土を覆った暗闇(出エジプト10章22)のように、そこで神の救いが成し遂げられる神秘の闇でもあります。

  《三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である》。
  イエスさまが叫ばれたアラム語を、マルコはギリシア語に訳して、その意味を説明しています。これは詩編22編の冒頭の言葉ですが、イエスさまはこの叫びの言葉通りに、神から見捨てられ、地獄の暗闇を味わい死んでいかれます。このとき地を覆っていた暗闇は、イエスさまの魂が味わっておられる神の裁きの暗闇を象徴するのです。
  イエスさまは神を「アッバ、父よ」と呼んで、いつも子としての親しい交わりの中におられました。そのイエスさまが生涯の最後において、神から見捨てられて死なれるのです。このときイエスさまが神の子でなくなったのではありません。神の子であるのに神に見捨てられるところに、イエスさまの激しい苦しみがあります。イエスさまは神に見捨てられるという形で、神の子の死を死にます。これは、私たちの理解をはるかに超える逆説です。そのとき神はどこにおられたのでしょうか。イエスさまを十字架につけた祭司長や律法学者たちの側におられたのでも、ましてピラトを代表とするローマ側におられたのでもありません。神はあくまでイエスさまの側におられたのです。それはイエスさまを復活させることですぐに公示されました。神はイエスさまの側にいて子の苦しみを共に苦しんでおられるのです。
  イエスさまは多くの人のために自分の命を引き渡し、苦しみを受けることによって民の救いとなるという神の定めに自分を引き渡されました。神も《わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された》(ローマ8章32)のです。限りなく愛しておられる御子を見捨て、死に引き渡すことによって、御父も苦しんでおられるのです。御子の苦しみを苦しみ、御子と共に苦しみを受けておられます。この父の苦しみは、わが子を祭壇に献げようとしたアブラハムの苦悩の中に先取りされていたのでしょう。このような私たちのための御子と御父の共苦こそ、神の側のもっとも激しい愛の表現だったのです。

  《そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた》。
  イエスさまの「エロイ、エロイ」の叫び声を、十字架のそばに立っていた者が、エリヤを呼んでいる声と聞き違えました。当時のユダヤ人の間では、義人の苦難にさいしてエリヤが天から助けに来てくれるという信仰がありました。エリヤは霊に満たされたイスラエル最大の預言者で、死を味わうことなく、地から直接天に移されたと伝えられています(列王記下2章)。天にとどめられているエリヤは、メシアの時代の到来に先駆けて地上に再来するという信仰が広まっていたのです(マルコ8章28、9章11〜13)。

  《ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした》。
  「酸いぶどう酒」とは、ローマ兵が元気を回復するために用いた、水と酢と卵を混ぜ合わせた飲物です。刑吏役のローマ兵が、自分が携えていたこの飲物を飲ませようとしたのでしょう。
  この出来事を伝えるとき、マルコは《人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします》(詩編69編22)という言葉の成就を見ていたのでしょう。

  《しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた》。
  イエスさまの最後の瞬間を、マルコはこのように簡潔に伝えます。イエスさまが発せられた大声の内容は、マルコが用いた古い伝承では伝えられていません。しかし、この「息を引き取る」という言葉は、「息」という意味だけではなく「霊」という意味もあります。それで、ルカ福音書は、イエスさまは大声で《父よ、わたしの霊を御手にゆだねます》(ルカ23章46)と言って息を引き取られたとしています。
  イエスさまが十字架の上で息絶えられたとき、受難の道を歩みぬくことによって成し遂げるべき使命、イエスさまが父から委ねられたと受けとめておられた使命が完成しました。まことに、イエスさまが叫ばれたと伝えられているように、イエスさまの側でなすべきことはすべて《成し遂げられた》(ヨハネ19章30)のです。

  《すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた》。
  イエスさまが十字架の上に息絶えてその使命を完了されたとき、神殿はその役割を終えました。イエスさまが息を引き取られると同時に、エルサレムの神殿では聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。この幕は人を神の臨在される至聖所から隔てる幕であって、年に一度大祭司があがないの犠牲の血をたずさえて入ることが許されるだけでした。この幕が裂けたことは、人はもはや律法に定められている神殿の祭儀制度によることなく、別の道で、すなわち、私たちの罪のために血を流し三日目に復活されたイエスさまに合わせられることによって、直接父なる神との交わりに入ることができる時代が始まったことを示しています。
  役割を終えた神殿はやがて取り去られます。幕が裂けたことは、やがて神殿が崩壊することのしるしでもあります。事実イエスさまの死後40年を経ないうちに、神殿はローマの軍勢によって破壊されるにいたります。一方、使徒パウロたちの働きによって、ユダヤ教の律法や神殿とは関係なくキリスト信仰によって誰でも神との交わりに入ることができるという福音が宣べ伝えられ、多くの異邦人がその交わりに加わってきました。
  このように、神殿の幕が裂けたことは、イエスさまの十字架上の死が、もはや神殿を必要としない終末的な事態の到来を意味する出来事であることを示しています。

  《百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った》。
  この「百人隊長」はイエスさまの処刑を行うローマ兵たちの指揮官です。彼はイエスさまの処刑を監督し確認するために「イエスさまの方を向いて立っていましたが、イエスさまが「このように」息を引き取られたのを見て、《本当に、この人は神の子だった》と言いました。
  この百人隊長は、人間の死に方の中でもっとも悲惨な十字架刑で死ぬイエスさま、しかも「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死んでゆくイエスさまの姿に、神の子を認めたのです。これこそ、マルコがこの福音書を書いて世界に訴えたい事柄でした。十字架につけられて殺されたイエスさまこそ、神の子キリストであることを伝えたいのです。マルコはその意図をもって、この百人隊長の告白を彼の福音書の締めくくりとして置いたのです。
  イエスさまの十字架刑による死を語り伝える伝承は38節で終わっており、39節はマルコが書き加えたものであるという有力な学説があります。そうすると、マルコ福音書は1章1の《神の子イエス・キリストの福音の初め》という標題的な要約で始まり、この異邦人のキリスト告白で終わる大きな構想の枠をもって書かれていることが分かります。マルコはこの福音書を書いて、イエスさまの働きと受難を世界に提示し、「このように」生き、「このように」死なれたイエスさまを、この百人隊長のように神の子キリストと告白するよう、世界の諸民族に呼びかけているのです。
  私たちも主イエスさまの十字架において示される神の愛と恵みの中で、「本当に、この人は神の子だった」と告白することから始まる信仰に生きる者でありたいと思います。