2014年8月24日 聖霊降臨後第12主日 マタイ福音書14章22〜33
「水の上を歩く奇跡」 説教者:高野 公雄 師
《それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた》。
「それから」とは、イエスさまが五つのパンと二匹の魚によって、男だけを数えても五千人に上る群衆を食べさせた後、ということです。きっと、そこは人々の熱狂と興奮の渦に包まれていたことでしょう。しかし、イエスさまは大急ぎで弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へと送り出しました。その一方で、たいへんな騒ぎになっている群衆を自分の手で解散させました。群衆の中に、イエスさまを指導者にして、なにか不穏な行動を起こそうとした人たちがいたからでしょうか(ヨハネ6章15節参照)。そして、ひとり山に登り、祈りの時を持たれたのです。ここでイエスさまには、何が重大な決意が求められたとも考えられます。
弟子たちは湖の上へと送り出されました。そこで逆風と波に悩まされることになります。逆風に漕ぎ悩んで思うように進むことができないでいる弟子たちの小舟。それはこの世を歩む教会の姿を象徴しています。イエスさまの弟子であるということは、教会という小舟に乗ってガリラヤ湖へと漕ぎ出していくことになるのです。この世には、信仰にとっての逆風がいつも吹き荒れているのです。ですから、私たちが信仰者として生き始めた途端に、私たちは逆風の中に漕ぎ出していくことになるのです。
《夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」》。
嵐の中において弟子たちが知らなくてはならないこと。それは嵐のただ中にイエスさまが来てくださるということです。悩みと恐れのただ中にイエスさまが来てくださるということです。「湖」と訳されていますが、原文は「海」です。「海」は象徴的に、無秩序・混沌・動乱の状態を意味します。旧約聖書では、この意味での「海」を鎮めたり水を支配できるのは神お一人だけですから、ここでも、イエスさまを通して神の力が働いたことを示しています。イエスさまがどのように海の上を歩いて来られたのかは、「分からない」と言わざるをえません。しかし、それが意味することは分かります。弟子たちを苦しめ悩ませている「海」は、どれほど大きな力を持っているとしても、それはイエスさまの支配の下にあるということです。
もっとも、イエスさまが近づいて来られることは、初めは弟子たちの喜びにはなりませんでした。イエスさまを認識できなかったからです。彼らは「幽霊だ」と言っておびえました。波と風のことで頭が一杯で、不安や恐れに捕らわれてしまっている時には、どんなにイエスさまが力強く臨んでくださっても、それが分からず、かえって不安と恐れが募るばかりでした。
しかし、そのような弟子たちに、イエスさまの方から語りかけてくださいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。おそらく暗闇の中で目はまだイエスさまをさだかに認めてはいないのでしょうが、その声、その言葉がイエスさまを認めさせたのです。イエスさまと共にいる安心が心を満たすと同時に、夜の暗闇も荒れ狂う波も気にならなくなっています。
ここで言われているのは単に「幽霊などではない。わたしだ」という意味だけではありません。「わたしだ」の原文は「わたしである」または「わたしはある」、英語なら、I am.という短い言葉です。「わたしはあなたとともにいる」という意味でもあります。この言葉は、神がモーセにご自分の名をお示しになったときの、《わたしはある。わたしはあるという者だ》(出エジプト3章14)と同じ言葉であり、ヘブライ語の~名「ヤハウェ」の語源に由来しています。ここで、イエスさまが神としての威厳と力を持っていることを宣言している、と受け取ることもできます。
《すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた》。
この29〜33節の部分はマタイ福音書だけの伝承です。
「わたしである」という神的称号をもって顕現されたイエスさまに向かって、ペトロは「主よ」と叫びます。このペトロの叫びには、復活のイエスさまを「主」と告白する原初の信仰告白が響いています。
ペトロはイエスさまの声を聞いて、自分自身も海の上に立ち、イエスさまのもとに行こうとしました。ペトロは「来なさい」とのイエスさまの言葉を聞いたので、水の上をイエスさまのもとへ歩んでいきます。ここで強調されているのは、ペトロの勇気ではありません。イエスさまの言葉とその力です。イエスさまの言葉を聞き、その御言葉に従うとき、彼は海の上を歩くことができたのです。風がやんだわけでも、波が静まったわけでもありません。しかし、彼はもはや海に翻弄される者ではありません。いかなる力も彼を滅ぼすことはできません。私たちは信仰によってイエスさまと共に海の上に立つのです。それがこの聖書箇所が語っている一つのポイントです。
しかし、それはあくまでも一面に過ぎません。実はこの聖書箇所が本当に語ろうとしていることの中心は、ペトロが海の上を歩いたことにはありません。むしろペトロが沈んだことにあるのです。そして、沈みつつあったとき、イエスさまがどうされたかにあるのです。
進むうちに、ペトロは強い風が吹いていることに気づいて、恐れに捕らわれます。そして水に沈み始めます。イエスさまはそのようなペトロの心の動きを「疑い」と呼ばれました。「なぜ疑ったのか」とイエスさまは言われます。「疑い」とは、もともと二つの方向に進んでいくことを意味する言葉です。「二心」という言葉に近いでしょうか。ペトロの心は二つに分かれてしまったのです。一方において、彼の心はイエスさまとそのみ言葉の方に向かいます。しかし、もう一方で風と波に向かいます。すると沈み始めたのです。「見るな」と言われても、現実に見えるのだからどうにもなりません。
そこで、ペトロはイエスさまに目を向けて、「主よ、助けてください。」と叫ぶと、イエスさまはすぐに手を伸ばしてつかまえてくださいました。「すぐに」です。そして、イエスさまがペトロをつかまえたのであって、ペトロが手を伸ばしてイエスさまをつかんだのではありません。沈み行くとき、一心にイエスさまを求めることができる人は、幸いです。
イエスさまはペトロに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。問題は彼の二心にありました。しかし、マタイは、「あの時のペトロのように沈んではなりませんよ。不信仰だと沈みますよ」ということを教えるために、この物語を書き記しているのではありません。マタイは、これがしばしば現実の教会の姿であり、キリスト者の姿であることを良く知っているのです。ですから、マタイは、沈みそうな小舟に近づいてきてくださるイエスさま、信仰の薄いがために沈んでいくペトロにすぐに手を伸ばしてくださるイエスさまを伝えようとしているのです。イエスさまがおられるから、私たちは絶対に沈んでしまうことはありません。世々の教会は「主よ、お救いください」を繰り返さなくてはならなかった教会でした。しかし、私たちに手を伸ばしてくだり、しっかりと捕らえて離さないイエスさまがおられます。
この「信仰の薄い者よ」という叱責は、イエスさまを信じない者たちに向けられることはなく、イエスさまを信じて従っている弟子たちに向けられる叱責です。マタイはこの言葉を、「野の花、空の鳥」のたとえで、衣食のことに思い煩う弟子たちに向かって(6章30)、嵐の中の小舟で怖れる弟子たちに向かって(8章26)、また、パンを持ってこなかったことを議論する弟子たちに向かって(16章8)用いています。この用例からも分かるように、この叱責の言葉は、どのような状況でも怖れることなく、神に委ねきってイエスさまに従うように弟子たちを励ます激励の言葉なのです。
《そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ》。
マタイ福音書では、弟子たちがイエスさまを「神の子」と認識するのはここが初めてで、これが16章16でのペトロの告白へつながります。ここで語られているのは、イエスさまが超人的な奇跡の実演者であることよりも、イエスさまが旧約聖書で証しされている、神の僕に優る「神の子」であって、聖書の神自身がイエスさまを通して働いているということなのです。
イエスさまは小さな信仰しか持っていない私たちを、神の子としての強い力でしっかりと捉えてくださり、共に舟に上がってくださいました。イエスさまが共にいてくださる教会の中に抱きとめてくださるのです。その時、舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスさまを拝みました。ここに、教会があります。私たちの信仰は小さなものです。イエスさまの御言葉に信頼し続けることができずに、周囲の状況を見て恐ろしくなり、沈みかけてしまうことがしばしばです。しかし、神の子であるイエスさまは、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけ、私たちをしっかりと捉えて、守り導いてくださっているのです。