2014年10月5日  聖霊降臨後第17主日  マタイ福音書18章21〜35
「仲間を赦さない家来のたとえ」
  説教者:高野 公雄 師

  《そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。》

  きょうの福音はイエスさまのたとえ話が中心ですが、その前にイエスさまとペトロの問答があります。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら」と、私が苦痛を受けた場合のことです。私は報復するのか、報復を放棄して赦すのかということです。「七の七十倍までも赦しなさい」というイエスさまの答えはもちろん、490回まで赦しなさいということではありません。それでは、赦すとはどういうことなのか、それを次のたとえで教えています。

  《そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。》

  原文の直訳は、「わたしは天の王国を人間の王国にたとえよう」です。ですから、以下では「天の王」を「地上の王」にたとえて、「人間の王」でさえも家来に対して慈悲と無慈悲を使い分けることを知っていることを言おうとしているのです。
  ある王から、家来がお金を借りていました。その額は一万タラントンです。一タラントンとは六千デナリオンであって、一デナリオンは当時の労働者の一日の賃金と言われていますから、一タラントンは六千日分の賃金に相当します。一年に三百日働くとすれば、二十年分の賃金という計算になります。一万タラントンはその一万倍ですから、一人の人が一万タラントンを稼ぐには二十万年かかるわけです。この家来は王に対して一万タラントンという絶対に返すことのできない莫大な借金を負っているのです。その家来が借金の返済を求められると、返す当てはありませんが、「どうか待ってください」と必死に願います。そのような彼を、王は憐れに思い、驚くべきことに借金を帳消しにしてやったのです。この家来は一生かかっても返すことのできない借金を突然に免除されて、大きな喜びに満たされたことでしょう。

  《ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。》

  たとえ話は続きます。百デナリオンとは、百日分の賃金に相当します。前と同様に、一年に三百日働くとすれば、年収の三分の一という計算になります。その家来は、仲間にそういう額を貸していたのです。彼はその仲間を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と迫りました。その仲間は「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼んだのです。つい先ほど、彼が王の前でしたことと同じです。しかし彼は赦さず、借金を返せない者として牢獄に送り込んでしまいました。

  《仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」》

  私たちがその家来の行為に憤りを覚えるのは、彼がはるかに大きな負債を赦してもらっていることを知っているからです。彼の仲間たちも同じ思いで、王に事の次第を告げます。すると、王は彼を呼びつけ、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言い、借金を帳消しにしたことを取りやめて、一生牢に入れてします。王が望んでいたことは、一生かかってでも償いをすることではなく、憐れみを受けた者として、憐れみをもって生きることだったのです。《「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい》(ルカ6章36)。

  この譬えは、仲間を赦さない家来の姿によって、人間の身勝手さ、自分が人に与えている損害や迷惑はすぐに忘れてしまって、人が自分に与えている損害や迷惑ばかりに目が行ってしまう様子をよく表しています。また、与えられている恵みをすぐに忘れて自分勝手に生きてしまう人間の姿を描いているとも言えます。そういう意味でこの家来の姿は、私たち自身と重なるのです。しかし、この譬えは単に「どれだけ人を赦すべきか」ということを語っているだけではありません。赦すとはどういうことか、赦しの本質について語っています。イエスさまはこのたとえで、単に無限に赦しなさい、と言っているのではありません。赦しの理由、根拠を示しているのです。ペトロの問いかけは何回、どこまで赦すべきかという問いでしたが、イエスさまは、なぜ赦すべきかということで答えています。
  私たちはなぜ人の罪を赦すべきなのでしょうか。いや、本当に赦すことなど可能なのでしょうか。きょうの譬えでは、私たち自身がもう既に、無限に大きな罪を赦されているということが示されました。一万タラントンという、自分の力では一生かけても決して返すことのできない、償うことのできない負債(罪)を、私たちは赦されたのです。ですから、大きな負債(罪)を赦された私たちが、自分に百デナリオンの借金のある仲間を赦すのは人間として当然のことで、それをしないならば、この家来のような振る舞いをすることになります。私たちが人の罪を赦すのは、自分の罪が既に赦されているからです。自分に与えられている赦しの恵みがあるから、それに応えて、自分も人を赦す、それが私たちが人を赦すことなのです。ですから、私たちが人を赦すことは、当然のこと、自然のことなのです。それがこの譬えでイエスさまが語っておられることです。人を赦すことは、人間の決意や人間の業、努力によることではありません。私たちは、積極的に人を赦さなければならないのです。なぜなら、私たちは、人が自分に犯している罪とは比べものにならないような大きな罪を赦されている者だからです。ペトロは、赦しは自分の決意や努力によってなされるものであると考えていましたが、イエスさまは神の赦しの恵みに応えて生きるところに赦しは生まれてくるものだと言っています。
  一万タラントンの借金を赦してもらったこの家来は私たちの姿です。自分が一万タラントンを赦されたことが分からなければ、人を赦すことは結局人間の業でしかありえません。そこでは、できるだけ赦そうとは思うけれども、でもこれは赦せない、あれは赦せない、ということになり、結局「赦せない」という憎しみの思いに満たされていってしまうのです。私たちは、一万タラントンの借金(罪)を負っている者であり、しかもそれを赦してもらった者です。私たちは日々、罪を重ねて生きています。その罪は私たちの中に積み上げられていきます。私たちは自分の力でこの罪を帳消しにすることはできません。
  私たちの一万タラントンの借金(罪)を、神はイエスさまの十字架によって赦してくださいました。一万タラントンの借金を帳消しにするということは、この王がそれだけの損失を引き受けることです。王は、莫大な損失を引き受けることによって、この家来を赦してやったのです。イエスさまご自身が、罪人である私たちのために、痛み、苦しみを背負ってくださる、そのような憐れみです。イエスさまはそういう憐れみのみ心によって、損失を引き受けてくださったのです。父なる神は、かけがえのない独り子の命を犠牲にして、私たちの罪を赦してくださったのです。一万タラントンの赦しは、神が私たちのために損失を引き受け、犠牲を払い、独り子のイエスさまが苦しみを受けて死んでくださることによって実現したのです。イエスさまを信じるとは、イエスさまの十字架の苦しみと死とによって、私たちの一万タラントンの罪、自分の力ではとうてい償うことのできない罪が赦され、帳消しにされたということです。
  私たち人間が神に赦していただいた罪は、一万タラントンの負債とも言える、本当に大きいものです。そして私たちの兄弟が、私たちに対して犯している罪は、百デナリオンです。百デナリオンは相当の額です。人が自分に対して犯す罪によって私たちが受ける傷は、小さいものではありません。相当の痛みを伴い、苦しみを伴うものです。けれども、それはやはり百デナリオンです。一万タラントンとは比べることすらできない、僅かなものです。一万タラントンを神が、独り子イエスさまの十字架の苦しみと死とによって赦してくださったにもかかわらず、それによって赦された私たちは兄弟の百デナリオンを赦すことができないというのが、人間の姿なのです。

  神が先ず、私たちを赦してくださっています。神が、独り子イエス・キリストの命という犠牲を払って私たちを赦してくださり、私たちに自由を与えてくださったのです。その恵み、自由の中で、私たちは、人を赦すことができます。そのために努力していくのでも、特別に寛容な人間になるのでもありません。赦された者だから、赦すのです。赦されて生きている者だから、赦すことこそが自然なのです。そこに、七の七十倍までの赦しが実現していきます。イエスさまによる本物の赦し、自分に罪を犯す兄弟を兄弟として回復することのできる赦しです。私たちのこの地上の歩みは、どうしても赦すことのできないことがあります。その中でこそ、いかに私たちの赦された罪は大きいのかということが示されます。イエスさまの十字架によって、私たちは赦し合う世界へと導かれるのです。