主の御元にとどまる~使徒1:3-8

イエス様の十字架と復活があり、そこから40日の間弟子たちと共に過ごされ、聖霊が臨まれるまでエルサレムにとどまっているようにと命じられて天に昇られました。  その時に12弟子から欠けてしまっていたユダの代わりにマッテヤが選ばれ、120人ほどの弟子達が共に集まり祈りつつ時を過ごしていました。 ここでの期間が何日あるかとかはイエス様は弟子達に言われませんでした。しかし弟子達はイエス様の約束に従って留まり続けました。その時間はどれほど長く感じたでしょうか。世間ではイエス様の遺体が弟子達によって盗まれたというデマが流されている状況でエルサレムにいることは大変だったはずです。120人もの弟子達のほとんどは建物から出ずに祈りと交わりを続けていたのではないでしょうか。ここで大切なことは周りの状況だけで判断して動くのではなく、主のことばに従うということです。周りがどんな状況であっても主のことばに従う時にこそ守りが与えられ、例え人間的に厳しい出来事が起ったとしてもそれをも通して主が恵みを現してくださることを私たちは使徒の働きから学ぶことが出来ます。 主のみことばに従順し、聖霊の満たしを求めていきましょう。当時あった閉塞感が聖霊の訪れによってブレイクスルーされたように霊的なところにおいてまず勝利を得ていくことが出来るよう祈り備えていきましょう。 [Read more...]

イエス様の願い~ヨハネ17:20-24

ひとつとなるということは本当に難しいことです。私たちはお互いの小さな違いを見つけて指摘しあったり、自分を基準として考えやすいものです。また多くの文化の中で常識、良識とされる基準で最適解を見いだそうとするヒューマニズムは世界の至るところで見受けられます。それが行きすぎると人間至上主義となります。聖書を見ていくと神様を基準とすることがシンプルに読み取ることが出来ます。軍事力がぶつかるなら強く数が多いほうが勝つでしょう。しかし重要な局面で神様はご自身に従うことによって与えられる奇蹟的な勝利で神様に従うこととはどのようなことかを示してこられました。 父なる神と子なるイエス様がひとつであるようにイエス様を信じるひとりひとりがひとつとなるようにとイエス様は何度も弟子達や後に信じる者のために祈られました。それは神様と私たちがひとつとされるために私たち信じる者同士がひとつになることは神様の栄光が現わされることであり神様の御心に沿ったものであるからです。現代においては多くの教団教派がありそこには多様性が当然あります。しかしお互いの違いを指さし合ったり、先入観でものを言うのではなく、みことばに従い主の名によってひとつとされていくことは家族にいろんな兄弟姉妹がいてもひとつの家族のような多様性のある一致です。家族がお互いの長所も短所も知りつつ愛し合っているように、主にあって愛し合い、ひとつとされていきましょう。神様の栄光が現わされるために、イエス様を愛する愛ゆえにひおっつとされていきましょう。 [Read more...]

信仰の力~ヤコブ5:13-16

イエス・キリストは祈りについて有名な主の祈りのように弟子達に教えられました。そして弟子達は多くの手紙や書簡の中でこの「祈り」について扱っています。 父なる神様に向かって私たちが祈る時に大きな力がそこには働きます。旧約の預言者エリヤは祈りによって雨が降らないように熱心に求めると2年6ヶ月も雨が降らなくなり、再び祈ると雨が降るようになったと記録されています。またそれ以外にも聖書には多く祈りの結果起ったとしか言えないような出来事が多く記されています。そしてそれはただの物語ではなく、私たちが神様に向かって祈る時にどれほど大きな力がそこに働くかということを教えてくれます。 そしてヤコブの手紙にあるポイントとして互いに罪を言い表し互いのために祈るということです。祈り会うということは神様と自分との関係だけではなく、人と人の相互の関係もそこに加わってくることを意味しています。つまり私たちはお互いに責任を負い合っている存在ということ、罪を言い表すことの出来る信頼出来る関係を築くことの大切さ、そして互いに罪を言い表して悔い改めに進むことで祈りの妨げとなる要素をなくしていくことに繋がることなど多くのことをここから学ぶことが出来ます。 祈りについて知り、そして聖書から正しく祈りについて学ぶことはとても良いことです。しかし、学ぶだけではなく私たちは祈りによって働く神様の力を体験するものとなり、より信仰へと進んでいきましょう。 [Read more...]