週報より~とりなしは自分のため~

とりなしの祈りと聞くと特別に祈りを主体とした働き人がすることのように感じるかも知れません。しかし第1テモテ2章にはすべての人々のために、また王とすべての高い地位の人達のために祈りとりなすことそして感謝することが出来るようにしなさいとあります。それは神様の前に正しくそして私たちが敬虔に、そして威厳を持ち、平安で一生を過ごすことができるためとあります。つまりその祈りはただ自分が祈りや思いめぐらすことによって時間をただその祈りの対象に費やすだけでは終わらないということです。その祈りによって地域の政治や社会が変わっていくこともあるでしょう。実際そういった地域ごとトランスフォーメーションされている地域や街、さらには国もあるのです。祈りは時としてそういった大きな働きの原動力として力強く働くのです。日々の生活の中で私たちはもっと自分たちの地域に立てられているリーダー達のために祈りとりなすべきです。それは主の前に正しいことだからです。彼らが正しい判断をすることが出来るように、また現時点がどうであったとしてもこれから先さらに改善されていくように期待と忍耐を持って祈りとりなしていきましょう。それは神様の方法で私たちの歩みにもその祈りの結果が伴ってくることだからです。私たちの住んでいる地域が5年後、10年後、50年後、100年後よりよい街、国、世界になるよう祈りの火を灯していきましょう。 [Read more...]

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日々少しづつあれこれと更新して戻して、また更新してと利便性を上げるためにHPをいじって見てます。そこで!今日はグーグル、Yahoo、LINEへのシェア、ブックマークボタンを追加して見ました。多すぎても見た目雑然としますが今の普及率を見るとこれらへの対応は出来たほうがいいのかなということでボタン追加しました。アカウントお持ちの方はお気軽にポチっとお願いしますね(^^)

週報より~信仰の戦い~

聖書には度々預言についての言及があります。一般的にイメージする特に選ばれた賜物のある人物のみがするという解釈もあるかも知れませんが信仰の経験からくる聖書に基づいた励ましやアドバイスも広い意味での預言ということが出来ます。それは占いのような将来のことを当てるという類のものとは本質的に異なるものです。神様が私たちに与えて下さる預言は不安や恐れではなく信仰による確信に至らせるものであり、そして浮ついたものではなく地に足のついたものです。将来的に素晴らしい働きをするということを含んでいたとしてもそのために備えていく堅実さを持ち合わせたものだからです。多くの人を惑わし信仰の破船にあわせようとサタンは多くの惑わしを持って私たちを誘惑し、攻撃してきます。その目的は本当の神様を見えなくすること、また知っていても信じられなくすることにあります。聖書的な預言は私たちをそういった試練の中で守り、信仰をつなぎ止める力強いものです。そして何より本質的な品性を磨き上げてくれる結果をもたらします。大前提としてどんなに正しく素晴らしい預言であっても受け止める側が成熟していなければ旧約聖書のヨセフのように高ぶってしまうことでしょう。神様の前に遜り、そして大きなビジョンに燃やされて歩むこと、この両方をしっかりとダイナミックなバランスを持って歩んでいきたいものです。 [Read more...]