世の光となる~マタイ5:13-16

世の光、地の塩という例えを持ってイエス様は私たちがどのように歩むのかということを教えられました。イエス様が語られたことばは私たちの人生の方向性をしっかりと示しています。イエス様を救い主として信じ、そして信じる私たちがどのように歩んでいけば良いのかを明確に教えてくださっています。 ありのままの私たちがイエス様を信じて救われるという救いのスタート地点は揺るぎませんが信じた私たちがどのように成熟へと進んでいくのかということもまた大切です。行いがないと救われていないという極端に陥らないと同時に救われただけでなにも変わらないという極端からも私たちは守られる必要があります。 良く「○○べき」ということばに過敏に反応する方がおられますがイエス様は「○○しなさい」とさらに進んで明確な指示、また命令を弟子達に語られました。それは使徒達がまず遣わされた時に結果の大小に関わらず主の働きが前進していったように世の光、地の塩として私たちが輝くという面とそれによって多くの人々が主を知るようになるという面、またその過程の中で私たちが自分達の都合を置いて主に従う時に起る多くの恵みを私たちが知るためです。主の恵みを知るというのははじめの奇蹟において水を汲んだ僕がその奇蹟を一番理解できたように私たちが主のことばに忠実に従うからこそ御業が起り、またそのことによって私たちの信仰が強められ、その奇蹟によって多くの方が主の恵みを受けることが出来るという広がりがもたらされます。 主に従い、光を輝かせる者となりましょう。 [Read more...]

イエス様の価値観~マタイ5:38-48

「目には目を葉には歯を」ということばを聞いたことがある方は多いのではないでしょうか?これは旧約聖書の出エジプト記やレビ記に書かれている律法の一部分です。この箇所には火傷や骨折、またいのちの代価についてのことに対する規定日本の法律的にいうと傷害罪についての裁きとして記されています。これだけ見ると怖いように感じるかも知れませんがこれは実は制限なのです。 人はなにか自分に対してされたことに対して同じような目に遭えばいいのにという以上に報復しようとする自己中心的な思いに負けることがあります。何倍もにして痛みを返したくなるような思いです。しかしローマ人への手紙やヘブル人への手紙には復讐は神様に任せることについて記されています。そしてほかでもないイエス様ご自身がこの規定について悪に対して悪で報いず自分の敵を愛し、そのために祈るようにと言われています。ここまでくるとすごくハードルが高く感じるでしょう。しかし世界中である負の連鎖を断ち切る方法はまさにこのイエス様の価値観、品性を理解し、実践しようとしていくことだと感じます。完全に実践出来なくてもそこには赦しがあり、歩み寄ろうという心がそこにあるからです。 聖霊様によって心の内面の深いところからきよめられ、思いを一新していくことが出来るように、神様に思いを委ねていきましょう。 [Read more...]

信仰によって義とされる~ローマ4:7-25

信仰の父としてアブラハムという人物が聖書ではひとつの柱として書かれています。旧約で登場する人物ですが新約においても信仰による義、救いと愛によって働く信仰をこのアブラハムの信仰を通して教えています。「行いのない信仰は死んでいる」とヤコブは記していますが逆に行いがないと救われないという強迫観念を持つことも間違っています。神様を信じ、期待する時にそのように備え、また行動するのは自然なことです。誰かの誕生日を祝おうと思ったら「おめでとう」と声をかけ、また時には喜んでくれたらとプレゼントを探し、そして買いに行って準備するでしょう。これは思いから出て来る自然な行動です。また思いがあるから行動しているのですが行動を見て思いがあることも分かります。また思いがあっても行動出来なかった時に「なにかプレゼントしたいと思ったのだけど準備が間に合わなかったからまたなにかお祝いさせてね」と声をかけることもあるでしょう。これも思いがあるからです。この関係のスタートは何かを行動する前にある思いであることが分かります。まずそれで喜ばしいことですし、その先の行動までいけばそのことをよりきちんと認識することが出来ます。神様を信じる信仰と行いというのはこのような自然な関係から流れていきます。プレゼントを選ぶ時に何を喜ぶのかをいろんな情報や経験から選ぶように成熟したクリスチャンは神様の思いを知っていてそのことを満たそうとして行動することが出来ます。自分が好きか嫌いかではなく神様が喜ばれるから喜んでするのです。信仰によってより神様との関係を深め、共に集まり、歩んでいきましょう。 [Read more...]