喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣く~ローマ12:9-15

聖書の中には私たちが生きる上で大きな指針となることが色々と書かれています。律法のような一見難しそうなことから喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣くというような感情的にも繋がりが強い人同士であればとても共感しやすい事柄も書かれています。このみことばのポイントはこの関係性を内輪だけのもの、仲良しグループの中だけでするものではなく、神様が愛してやまないお互い、つまり私たちが他人と思っている方に対してもそのような心を持つことが出来るかどうか?という大きな課題があります。それは神様が私たちを祝福されることの意味を知ることが大きな鍵になります。神様はアブラハムを祝福されました。しかしその祝福はアブラハムだけに与えられたものではなく、アブラハムが祝福を受け、アブラハムが多くの人々にとって祝福となるということを神様は明確に語っておられます。湖が水を川を通して海に注がないと死海のようになるように、祝福を循環させることは神様の御心です。私たちがなんでも一人占め、自己責任という風潮に流されるのではなく、祝福を流し出し合うことができればお互いの短所によってなにかを建て上げるのではなく、お互いの長所、強みで建て上げることが可能になります。そして主にある喜びを共に喜ぶ者となりましょう! [Read more...]

キリストの体としての一致~ローマ12:4-8

人に与えられた「個性」というものは素晴らしいものであると共に「多様性」というものの許容範囲が人によって認識が異なる側面があります。つまりどこまで個性が受け入れられるかということは文化や習慣、環境において変わるということです。しかし個性だからと言って犯罪行為を認めてしまえば多様性、個性を需要しなければならないという押しつけになり弱い立場の人たちは自分を守ることすら出来なくなります。そしてその立場も分野が変わると逆転します。同じスポーツ選手だからといってなんでも出来るわけではなく、野球のプロと水泳のプロは要求されるものが違いますし、同じ陸上というくくりの中ですら短距離選手と長距離選手に必要なトレーニングも求められる資質、つけるべき筋肉のタイプまで違うのです。見た目は似ていたりカテゴリーが近くてもそれぞれが違うのです。ではなにを持ってわたしたちはひとつとなることが出来るでしょうか?人が考えるのでは自分を基準としてしまうからです。神様は聖書を通して私たちがお互いの文化、習慣などの違いをおいてひとつになることについて記しています。旧約における律法というものも新約においてイエス様がまとめられました。それはユダヤ文化がいいとか違うとかではなく、すべての人が神様の愛を知り、キリストの贖いのゆえに救いを受け取るためです。違いを乗り越えるほどの愛がそこにあるのです。そしてイエス様ご自身は天の栄光を全て捨てて人として、しかも弱い赤ちゃんとして来てくださいました。与えられたキリストにある救いの恵みを今日も感謝し、明日も共に歩みましょう。 [Read more...]

心の一新によって~ローマ12:2-3

聖書の中にはいろんなキーワードが出て来ます。その中に「悔い改め」ということばがあります。自分の行いや心を神様の前に改めるというステップですがその前に神、罪、救いという柱の部分を知ることから真の悔い改めに繋がっていきます。また「心の一新」ということが悔い改めから進んでいくうえでとても大切です。同じ考え方をしていていると同じ失敗や罪からなかなか離れることが出来ないこともあるからです。私たちは過去から学ぶべきですが捕われてはいけません。何がよいことで神様に受け入れられることかを知り、心の一新すること、与えられた信仰の量りに応じて慎み深い考え方をすることをパウロはローマ人への手紙の中で教えています。ここで大切になるのが謙遜かつ大胆な者へと整えられていくということです。なぜなら神様の前に謙り従うということは自分にしか出来ないというある意味独りよがりな考えから守られると共に神様は自分を用いてなんでもすることが出来るというダイナミックなバランスを保つことが神様の前にフラットな状態だからです。悔い改めと心の一新も悲観的。消極的な考えと楽観的、積極的な考えがあるように見えますがどちらにしても自分中心な考えの軸を神様中心の軸に移していくことが重要です。主の前に整えられた者とされていきましょう。 [Read more...]