「主イエスの苦難と栄光」

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聖書 へブル人への手紙2章1~9節 

(序)へブル人への手紙1章1~3節では、主イエスがどのように栄光に富んだ方であるかが、7つの点で語られ、4~14節では、旧約からの7箇所を引用して、主イエスの栄光が、御使いにまさっているかが述べられていました。本日は、第2章に進みたいと思います。

一、しっかりと心に留め、押し流されないように

まず、1節をご覧下さい。「聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません」と警告がなされています。1章で主イエスの偉大さを示したべブル人への手紙の著者は、厳かな警告を与えています。「聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、」と、福音を聞いたなら、それをしっかりと心に留めるようにと勧めています。主イエスの本質とみ業における卓越性が1章で示されましたが、その主イエスによって語られた福音をいい加減な態度で聞いてはならないと言っているのです。「押し流される」パラレインとは、指から指輪がスルリと滑り落ちることや、食べ物が間違って気管にスルリと入ってしまうこと、場違いな事柄が、話している会話の中に巧みにスルリと入り込み、話している主題を見失わせてしまう時などに用いられます。同じ意味の言葉が、箴言3章21節の「見失うな」という意味のヘブル語のギリシャ語訳として用いられています。また、同じ箴言4章21節の「目から離さず」に用いられています。要するに、神のみことばを、そして、特に主イエスによって語られた福音の言葉を、いい加減な態度で聞いて、その神の備えて下さった恩寵を受け取り損ねることを言っているのです。

3節の「ないがしろにして」と訳された言葉アメレオーは、マタイの福音書22章5節では「気にもかけず」と訳されています。王子の結婚披露宴に招かれた人が、王の招待に対して、気にもかけず、それぞれ畑に行ったり、商売をしたり、折角の招きを断って、自分勝手な行動をしたというところに使われています。御使いたちを通して語られたみ言葉でさえ、これに従わないならば当然処罰を受けるが、まして、御子によって語られた素晴らしい救いの福音をないがしろにする者に対しては、どうして裁きをまぬかれることが出来ようかというのです。この救いの福音は、最初主によって語られ、それを聞いた人たちによって確かなこことして伝えられた。さらに、神ご自身が、しるしと不思議と力ある業と、聖霊を注がれたことによって、証しして下さった。この救いのみことばにしっかりと留まるようにと勧めているのです。

二、御使いよりも低くされた主イエス

5~9節は、しばらくの間、神の独り子である主イエスが、しばらくの間御使いよりも低くされ事の意味が論じられています。6~8節に詩篇第8篇4~6節が引用されています。ダビデは、人間に与えられた王としての支配権を思い、深い驚きをもって、この詩篇を歌っています。この人間の持つ王としての支配権は、創世記1章26節の「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて、彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を這うすべてのものを支配するように」という神のことばを反映しています。これは最初の人アダムに与えられましたが、罪のゆえにその権限を失いました。ここで、へブル書の著者は、最初のアダムではなく、第2のアダムとしての主イエスに当てはめています。すなわち、「人の子」という言葉を、へブル書の著者は、ご自分を「人の子」としてあらわされた主イエスに当てはめています。、主イエスこそ、アダムの違反を人類から取り除き、新しく人類の始めとなって、人間の被造物に対する支配権を回復して下さったのです。8節に言われているように、今はまだ完全に、その支配権が行使されるキリストの御国の出現を目の前にしていません。それは、まだこの後のことです。「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされたイエスのことは見ています」と言います。そして、主イエスがしばらくの間、低くされた理由を宣べるのです。

三、死の苦しみを通しての栄光と誉れの冠

9節をご覧ください。ここに、主イエスが、死の苦しみを通して、「栄光と誉れの冠」をお受けになったことが告げられています。へブル人にとって、神の御子、主イエスの苦難の死ということは、躓きのもとであり、驚きという以外にないない事でした。しかし、主イエスの死は、「栄光と誉れ」に深く結びついていることを理解する必要があります。主の死は、悲劇的な出来事ではなく、神のあわれみと恵みに源を発している出来事です。主イエスは、その死の苦しみを通して、贖いをなすという神の憐みに満ちたみ業であったのです。9節の「味わう」ゲゥオマイという言葉に注目していただきたい。「味わう。経験する」ということです。主イエスは、死の苦しみを実際に、その身をもって、味わい経験して下さったのです。まさに、人間に襲い来る死の力というものを、全身をもって全て受け止めて下さったのです。

2005年に『ふるさとへ心の旅人』を出版しました。後日、ある先生がわざわざ訪ねて来てくださって、本のお礼と共に、「つかぬ事をお伺いします。没薬というものは塗るものとばかり思っていましたが、飲むのですか」という質問を受けました。そこで、マルコ15:23を開いて、お答えしたような次第です。そこには、主イエスが、ゴルゴダの丘で、十字架にかけられる前、処刑執行人が、没薬を混ぜたぶどう酒を主イエスに与えようとしたが、「イエスはお飲みにならなかった」と記されています。ところが、ヨハネ19:28では主イエスは、贖いの全てが完了したことを知って、「わたしは渇く」と言われました。人は、何か大きな事を成し遂げたとき、一番に覚えるのは、渇きだそうです。ヒソプの先の海綿に酸いぶどう酒を含ませたものが差し出されます。十字架につけられる直前に差し出された没薬を混ぜたぶどう酒はお受けにならなかったが(マルコ15:23)、今はお受けになります。主イエスは、ぶどう酒を受けられ、のどを潤してから、「完了した」(第6言 ヨハネの福音書19章30節)と贖いのみ業が完成されたことを宣言されました。私たちの罪のための贖いの代価は、完全に支払われたのです。

今注目して頂きたいのは、十字架につけられる直前に差し出された没薬を混ぜたぶどう酒はお受けにならなかった(マルコ15:23)ということです。もし、この時、主が没薬入りのぶどう酒をゴクリとやったなら私たちの救いはどうなっていたであろうと思うのです。しかし、主は没薬入りのぶどう酒をお飲みになられませんでした。この没薬入りのぶどう酒は、刑を受ける者にせめてもの憐れみで、用意されていました。すなわちそれは麻酔的な効果のあるものだったのです。すなわち、主イエスは、しらふで、何ら麻酔的な手当てもなく、霊と心と体のすべてをもって、十字架の苦しみを味わってくださったのです。

それは、へブル2章9節に述べられている通り、神の恵みによって、すべての人のために、私たちすべて者に代わり、私たちの身代わりとして、十字架にかかられ死の苦しみを味わわれたのです。それゆえに、栄光と誉れの冠」をお受けになったのです。

(結論)私たちに代わって、死を味わい、贖いを成し遂げ、私たちが失っていた権限を回復してくださったのです。この主から目を離さず、主とその恵みの御業をしっかり心に留めて、押し流されないようにいたしましょう。