「祝福の言葉」⓷

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「ゼブルンよ。喜べ。あなたは外に出て行って。

 イッサカルよ。あなたは天幕の中にいて。」申命記33章18節

(序)本日も続いて、モーセの祝福の言葉から共に見たいと思います。申命記33章18~19節をご覧ください。ゼブルンとイッサカルに対する祝福が記してあります。

一、ゼブルンとイッサカルへの祝福の言葉

ゼブルンは、ヤコブの10番目の子であり、その名は、「住む所」という意味です。母親レアが、「神は私に良い賜物(ザーバド)を下さった。今度は、夫は一緒に住ん(ザーバル)でくれるだろう」と言ったので付けられた名です。ゼブルンは、イッサカルと共に南ガリラヤ地方を領地として所有しており、森林資源やガリラヤ湖からの豊富な水産物を得ていました。創世記49章には、「その背中はシドンにまで至る」とあるので、地中海にまで進出したようです。ゼブルンとイッサカルは、しばしば共に語られています。彼らは、デボラの時の戦いやギデオンの時の戦いに忠実に従っています。アッシリヤによる侵略を受けた時、最初に占領されたところです。しかし、主イエスの福音宣教に最初に預かった所です。

イッサカルは、ヤコブの9番目の子どもです。彼らもゼブルンと同様、しばしば諸外国の侵略を最初に受けた土地です。しかし、これまた、ゼブルンと同様に、主イエスの福音宣教の恵みに最初に与った地域です。ゼブルンとイッサカルに対して、申命記は、「喜べ」と言っています。 ゼブルンは積極的に外に出て行き、喜びを獲得すると言うのです。これに対し、イッサカルは、天幕の中にいての喜びを約束されています。さらに、彼らは、海の富と砂に隠された富をもって養われると言うのです。

ローマ人への手紙12章6~8節をご覧ください。私たちは、性格的に積極的な者もいれば、静かな消極的な者もいます。主はそれぞれに賜物を与え、それぞれの賜物を用いて主のみ業を行ってくださいます。ここで、パウロは、7つの種類の賜物を挙げています。㋐「預言」とは、神のことばを預かって語ることであり、みことばを解き明かし、メッセージを語ることです。㋑「奉仕」とは、執事が食物の配給のために選ばれたように、人々の必要にために労することです。㋒「教え」とは、聖書の真理を解説し、一人ひとりに根付かせる働きです。㋓「勧め」とは、人々を慰め励まし、前進できるように促す働きです。㋔「寄付」とは、人々の必要のために金銭をささげることです。惜しみなくささげるべきことが勧められています。㋕「指導」とは、人々の先頭に立って進むことです。指導者に必要なものは、幻と忍耐と常に目標を目指して進む力です。㋖「慈善」とは、他の人への同情であり、関心です。他の人の心の動きに対する細やかな感受性です。

すべての人が、それぞれに賜物を与えられています。それらを用いて、教会が健全に建て上げられることを、神様は願っておられます。自分に与えられている賜物が何であるかを知り、それを生かして用いることは大切なことです。また、互いの賜物を尊重することも大切です。互いの賜物が生かされて、教会は健全に、また豊かさに溢れて成長することができるのです。

二、大いなる光と喜び

イザヤ書9章1~3節をご覧ください。1節に、「苦しみのあった所にやみがなくなる」とあります。ゼブルンの地とナフタリの地とは、ガリラヤ湖の西側にあたる地域です。この地域は、外国の勢力によって、一番に侵略され、苦しみを担ってきた地域でした。その闇に包まれていたようなガリラヤの地域に、メシアである主イエス様がお出で下さり、ガリラヤ伝道をなしてくださり、世の光として、闇を照らしてくださいました。ですから、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た」と言うのです。死の陰に住んでいた者の上に光が照ったのです。戦いは止み、重荷のくびきは除かれ、喜びと繁栄が人々に訪れるというのです。そして、6節において、メシア誕生の預言がなされています。

主は、ゼブルンやイッサカルの苦しみを変えて、喜びに満たされたように、わたしたちの悲しみや嘆きを変えて、喜びに満たしてくださいます。

詩篇30篇5節をご覧ください。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」とあります。また、詩篇30篇11節には、「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えて下さいました。あなたは、私の荒布を解き、喜びを私に着せて下さいました」とあります。涙を喜びの叫びに、嘆きを踊りに変えて下さいます。11節に「あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました」とありますが、エミ・カーマイケルの『主の道を行かせてください』という本の中に、この一節が引用され、ロザーハムの訳文が紹介されていました。それによると「あなたは私の荒布を引き裂いて、喜びを私にまとわせてくださいました」Thou hast torn off my sackcloth, And girded me with gldness:となっていました。この「引き裂く」という言葉に、心が引き付けられました。「荒布」は、嘆きの時に、あるいは罪を悔いる時に身に着けました。嘆きの原因が解決し、罪が赦されたという確信がなければ、この「荒布」を脱ぐことはできません。自分で「荒布」を脱ごうとして脱ぐことができません。「荒布を引き裂くのは」私たちではありません。主が引き裂いてくださるのです。主は、その荒布を一瞬のうちに「引き裂いて」下さり、私たちに喜びをまとわせてくださるのです。

 

(結論)さて、本日のみ言葉を祈りの内に黙想していました。私たちにとって、外の喜び、内の喜びとは何だろうか。外の祝福、内の祝福とは何だろうか、と考えました。私たちにとって、私たちの家族の中や私たちの教会の中に、喜びや祝福が与えられることは、感謝なことです。しかしそれだけでなく、私たちの周りの人々の祝福を祈りたいと思います。私たちは、与えられた賜物を、主と人々のために用いていただきましょう。