あわれみ深い忠実な大祭司

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礼拝説教「あわれみ深い忠実な大祭司」

聖書 へブル人への手紙2章10~18節

(序)先週は、「主イエスの苦難と栄光」という事で、2章の1~9節から、主が、私たちに代わって死を味わい、贖いを成し遂げ、私たちが失っていた権限を回復してくださったことを見、この主から目を離さず、主とその恵みの御業をしっかり心に留めるようにしましょうと話し合ったことです。本日は、2章10~18節より、私たちと同じ血肉を持ち、多くの苦しみを経て救いを完成して下さったあわれみ深い忠実な大祭司について見たいと思います。

一、血肉を持たれた主イエス

11節の「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです」とありますが、改訂された新改訳2017は、「みな一人の方から出ています」と訳し変えられています。すなわち、「聖とする方」すなわち主イエス様も、「聖とされる」私たちも、同じ父なる神から出ていると言うのです。すなわち、ここでは、主イエス様が、私たちと同じ血肉を持った人となり、私たちを兄弟と呼んで下さったという事を論じているのです。

へブル人への手紙2章12節は、詩篇22篇22節からの引用です。詩篇22篇は「十字架の詩篇」と言われるように、「わが神。わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」という言葉で始まるところの、主イエスの十字架での苦しみを預言している詩篇です。前半は、肉体とたましいの苦しみが歌われていますが、21節と22節の間にある「あなたは、私に答えてくださいました」の一句をはさんで、22節から主への賛美へと大きく内容が変化しています。小島伊助先生は、「父なる神は、何と答えられたのであろうか、と想像の泥靴で上がり込むのを許していただくならば、『お前にその資格があるからだ』と言われたのではなかろうか」と言われたことがあります。全人類の贖いのために、捨てられなくて良い方が捨てられる。その資格のあるのは、ただ神にして人となってくださった主イエスキリスト様にのみあるのです。その22節が引用され、「兄弟たち」と「教会の中で」が強調されています。この詩篇22篇22節で「会衆の中で」とあるのを、70人訳にしたがって「教会の中で」として引用しています。

また、へブル人への手紙2章13節は、イザヤ書8章17節からの引用です。イザヤは、7章と9章で、救い主の誕生を預言していますが、人々は心かたくなにし、彼の預言の言葉を聞こうとはしません。そこで、イザヤは弟子たちに預言の言葉を束ね、封印するようにと命じます。そして、イザヤは、ただ主を信頼し、主に望みを置くと告白するのです。そして、イザヤ自らと彼の子どもがしるしとなると言うのです。それは、イザヤの神に対する絶対的信頼と神が語られた言葉は必ず成就するとの確信の表明です。そのような文脈の中で、へブル書の著者は13節に、イザヤ書からの二つの引用をして、キリストとキリスト者の一体性を証し、14節へと続くのです。血肉を持っているという事は、様々な試み、苦難、死というものを味わうということです。

二、多くの苦しみを通しての救いの完成

14~15節に、主が私たちと同じ血と肉を持ってくださったことの結果が述べられています。すなわち、主が私たちと同じ血肉を持って下さり、死を味わって下さったゆえに、その死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖に繋がれていた私たちを解放して下さったのです。10節に「救いの創始者」とあります。ここに、アルケーゴスというギリシャ語がつかわれており、「救いのアルケーゴス」ということです。このアルケーゴスとは、「創始者」「君」「導き手」「案内人」「開拓者」という意味を持った言葉で、「道を新たに切り開き、人々が後に従うことの出来るよう導く人」を意味しています。

それは、例えるなら、難破した船から、一人の男がロープを腰に巻き、荒れ狂う海と岩の間を潜り抜け、ロープを岩にしっかりと結び付けるようなものです。そのロープを頼りに、船に残っていた人々が岸にたどり着き、無事に助けられる時、その最初に、ロープを腰に巻いて海に飛び込んで救いの道を開いた人を、この場合、アルケーゴスと言うのです。

まさに、主イエス・キリスト様は、信仰のアルケーゴス、信仰の創始者として、多くの苦しみを通して私たちの救いの道を開き、完成して下さったのです。

三、あわれみ深い忠実な大祭司

17節をご覧ください。「あわれみ深い、忠実な大祭司」とあります。大祭司は、神と人の間に立ち、人々に代わって祈りとりなす務めを行う人です。

旧約時代、羊などの動物を屠り、その血を携えて至聖所に入り、民のための贖いをすることにより、民の罪咎は、ゆるされ、きよめられるとされていました。

第1、主イエス様は、大祭司として、あわれみ深い方です。主イエス様は、罪以外の、すべての点で私たち人間と同じになる必要がありました。そうしてはじめて、私たちに同情して下さり、父なる神に祈り執り成し、宥めて下さって、私たちを助けて下さることが出来るのです。

第2に、主イエス様は、大祭司として、父なる神とその大祭司としての働きに忠実でなければなりません。忠実であってこそ、その執り成しの祈りは、父なる神様に聞き届けられるのです。その意味で、主イエス様は、あわれみ深い大祭司であると共に、忠実な大祭司であってくださいます。ゆえに、キリストによって、神に来る人々をいつでも完全に救うことの出来るお方です。

さて、18節をご覧ください。、「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」とあります。主は、私たちと同じ血肉を持って下さり、先週申し上げましたように、私たちのために死を味わって下さった「あわれみ深い、忠実な大祭司」であるゆえに、私たちは、救われ、助けを受けることが出来るのです。

瞬きの詩人、水野源三さんは、1937年に長野県で生まれ、1984年に47才で天に召されました。9才の時、赤痢の高熱から全身マヒとなり、言葉を話すことも出来ませんでした。12才の時初めて聖書に触れ、キリストを信じて、13才で受洗されました。お母様の手助けで、後には弟のお嫁さんの手助けで、五十音図を瞬(まばた)きで指定する方法によって、多くの素晴らしい信仰の詩を作られました。その詩の一つに「もしも私が苦しまなかったら」(新聖歌292)があります。

「苦しまなかったら」 もしも私が苦しまなかったら 神様の愛を知らなかった

もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら 神様の愛は伝えられなかった

もしも主なるイエス様が苦しまなかったら 神様の愛はあらわれなかった

まさに、苦しみや悲しみが、私たちを、イエス様の御許に連れて行ってくれたのです。イエス様が苦難を受けて下さったからこそ、私たちは尊い救いに与ったのです。主イエス・キリスト様は、実に、「あわれみ深い、忠実な大祭司」なるお方です。