元旦礼拝「ただ中におられる主」

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聖書「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(ゼパニヤ書3章17節)

(序)始まりました一年が、主の祝福と守りのうちにあるようにお祈りいたします。主は、「主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。」(イザヤ書52章12節)と仰います。主は、この始まりました一年、私たちと共にいて、私たちを導き、整えてくださるお方です。今朝は、この年の教団の標語として掲げられたみことばであるゼパニヤ書3章17節を中心としてお話しするように導かれています。

この朝与えられています箇所は、1995年のため個人的に与えられていた聖句であり、2015年の教会標語の聖句として与えられた箇所です。この聖句は、阪神大震災に際して、私の心に強く、繰り返し迫って来た聖句です。あの時、この聖句によってどんなに励まされたか知れません。

一、勇気を与えてくださる主

ゼパニヤの活躍した年代は、BC630年ごろで、律法の書を発見して宗教改革を行ったヨシュア王の時代でした。いまだヨシュア王の宗教改革は始まっておらず、イザヤによって信仰の培われた時代とヨシュア王の宗教改革との間の不信仰な暗黒時代でありました。ですから、ゼパニヤ書の冒頭、いきなり、「わたしは必ず地の面から、すべてのものを取り除く。」(1章2節)と厳しい警告を告げています。 そして、「主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ」(2章3節)と勧めるのです。しかし、3章9節から、ガラッと調子は変わり希望と回復、祝福と喜びが預言されています。ゼパニヤの時代、イスラエルの民は失望し、もはや立ち上がる力も失せた状況の中にありました。そのような中、預言者は、主の大いなる回復の恵みの幻を見せられたのです。

突然に、「シオンの娘よ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ」(14節)と声高く叫びます。なぜなら、主が、その罪をゆるし、きよめ、訴えられる必要のないものとして下さるからです。それは私たちにとって主の十字架による罪のゆるしの御業です。血潮に対する信仰、ただこの故に敵なる悪魔は退散するのです。そして、15節、「イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。」と大いなる励ましを与えて下さるのです。

16節には、「恐れるな、気力を失うな」とあります。恐れて、気力を失って、茫然自失、これでいいのか。何をすれば良いのか。何から始めたら良いのか。まったく考える力さえない。手をダラリと垂れている。その彼らに、主は、「手を弱々しく垂れるな。勇気を出せ。あなたにはわたしがついている」と主は励まして下さるのです。

二、勝利を与えてくださる主

17節に、もう一度、「イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる」とおっしゃって下さっています。主は、勇士です。連戦錬磨の大勇士です。万軍の主です。この主が共にいまし、お言葉を下さるとき、私たちは勝利をすることが出来るのです。主は救いの勇士です。勝利の勇士です。私たちは、私たちを愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者となることが出来るのです。ローマ8章37節。

三、愛と喜びに満たしてくださる主

17節の後半、主の喜びと愛が溢れています。これはもう愛の盈満です。主は、私たちの内にいまし、私たちを励まし、強め、助けて下さるだけでない。私たちを喜び、また、私たちの内に愛を満たしてくださるのです。「その愛によって安らぎを与える。」とありますが、この所に関して、2つの解釈があります。一つは、新改訳や文語訳のように「愛の余りに黙し」(文語訳)「その愛によって安らぎを与える。」(新改訳)というものと、他は70人訳に従って「愛によってあなたを新にし」(口語訳)「愛によってお前を新たにし」(新共同訳)というものです。愛によって新にし、愛のゆえに安息が与えられると言うのです。しかも、主が愛の余りに黙されると言うのです。そして、ついに、愛は溢れ出るのです。祭りの日のように溢れ出てこれを隠しておくことができないのです。

ヨハネの福音書17章24節。この「私の栄光を彼らが見るようになるためです。」(24節)について、バックストン先生は次のように言っておられます。「すなわち、その栄光は父の愛でした。主はその栄を求められます。主は必ず他の栄光、他の権力を求められません。ただ父の愛を求められました。それは主の栄光でした。それはまた私どもの栄光です。私どもはそれを求めますか。私どもの栄光は、父に愛されることです。父の愛を経験することです。神は必ず誰でも愛されます。けれどもご自分のみ旨に適う者を格別に愛してくだるのです。神は誰でも愛してくださいます。しかし、誰もが神の愛を経験するのではありません。私たちの栄光は、他のことではなく、ただ父の愛を経験することです。これはこの世における最上の恵みです。…私たちの求めるべき栄光はただ父の愛のみです。」(バックストン)主は、私たちを愛で満たし、私たちを喜んでくださるのです。栄光とは何でしょう。それは、隠された神の本質が、現れることです。神の聖なるご本質、神の愛のご本質が、燦然と現れることです。その聖と愛のご本質の現れである御姿を見て

私たちは、心は満足し、たましいは満ち足りるのです。詩篇17篇15節をご覧ください。「しかし、私は正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目覚めるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」とあります。切なる祈りと叫びの後に、主の御顔を仰ぎ見て、その御姿に圧倒され、満足し、黙するのです。「ああもう何も申しません。あなた御姿を拝するだけで満ち足りています。満足です」というたましいの絶頂へと引き上げて下さるのです。(結論)私たちのただ中にいて、私たちに勇気と勝利を与え、愛と喜びに満たしてくださる主を信頼しつつ、この年、主とそのみことばを証ししてまいりましょう。