祝福の言葉⑤

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「祝福の言葉⑤」

聖書 申命記33章23~25節

(序)本日は、申命記33章よりお話し申し上げます。

一、ナフタリへの言葉

申命記は、「ナフタリは、恵みに満ち足り、主の祝福に満たされている」と大いなる祝福の言葉が記されています。ピンチはチャンスだと言われますが。私たちが弱さを覚える時は、神様の全能、完全さ、神様の恵みを知る好機です。A.T.ロバートソンによると、「主が言われた」というのは、まるで最後通告のようだ、と言っています。キッテルは、「十分である」という言葉は、創世記17:1、ヘブル13:5との関連性を認めています。すなわち、私たちは、主ご自身、あるいは主の恵みのみで十分であるかどうかを問われています。「わたしの恵みで十分のはずだ」と決定的に告げられているのです。それと共に、「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と継続的に神様の力がパウロと共にあることを述べています。「わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」と大胆に証ししましょう。自らの弱さを認めると共に、わたしたちを強くしてくださる方の力に信頼しましょう。ピリピ4:13、イザヤ40:31 「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」との主のお言葉に、パウロは信仰を持って立ちました。私たちも、この信仰に立ちましょう。そして、自分の弱さを誇り、7節を見ると、パウロには、肉体上の弱さがあったようです。これを取り除いて下さいと三度も祈ったが、聞かれなかったと言うのです。その代わり、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」とのお言葉をいただきました。第2コリント12章9~10節をご覧ください。ヤコブの6番目の子。ナフタリが生まれた時、レアが「争って遂に勝った」と言ったので、ナフタリ(「争う」の意)と命名した。ガリラヤ湖北西部の大部分を割り当て地として得ていた。その地域は、「地上の楽園」と呼ばれるほどの肥沃な地であり、穀物やブドウ、オリーブの栽培が盛んであった。ゼブルンの時も引用したが、イザヤ9章に記されているように、常に外国の侵入に苦しみ、辱められた死の陰の地であったが、主イエスの福音に最初に接した地であり、神の「祝福に満たされた」地域でした。

二、アシェルへの言葉

ヤコブの8番目の子の子孫で、彼の誕生の時、レアが「娘たちは私を幸せなものと言うでしょう」と言ったことから、アシェル(アセル)(「幸運な」の意)と命名された。彼の子孫は、地中海に面したイスラエル北西部の地域が領地です。「他の子らにまさって祝福される。彼はその兄弟たちに愛せられ、その足を油にひたすことができるように」とは、何という素晴らしい祝福でしょう。他よりも特別の祝福に預かると、妬まれるものです。しかし、彼は、その兄弟たちに愛されるというのです。「足を油に浸す」とは、産物の豊かさが語られています。人間関係において、地の産物において、安全において豊かに祝福され、守られていると約束されています。主は、私たちの産業、生業、人間関係、安全、すべての面で満ち足らせて下さいます。しかも、日々に、そして、生きる限りに、力を与え続けてくださるのです。「あなたの力があなたの生きる限り続くように」(新改訳)

かつてある開拓の教会を訪問させていただき、導かれて、申命記33:25の聖書を開いてお祈りをさせていただいた。お祈りが終って、その教会の先生曰く「今日は良いみ言葉を頂きました。神様は日々に求めて祈る所にしたがってかなえてくださるという恵みを覚えつつ、聖歌を先日の祈祷会に歌っていましたが、ここがそのみ言葉であることに気がつきました」と。「ああそうですか。その様な歌詞の聖歌がありましたでしょうか」と私が申しますと。「新聖歌349番の2節です」と言われます。開いて見るとその通、「ああここでしたか」と納得したことです。神様は、私たち一人ひとりの必要を、その求めに従って日々に満たして下さるのです。25節、「汝の力は、汝が日々もとむるところに従わん」(元訳)

(結論)日々に、信仰をもって求めるところを申し上げ、私たちを満ち足らせて下さる主に感謝しつつ歩む者とさせていただきましょう。