若かった時の誠実と愛を忘れるな

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礼拝説教「若かった時の誠実と愛を忘れるな」2019年1月27日

聖書 エレミヤ2章1~13節

(序) 先週に続き、エレミヤ書よりお話いたします。

一、若かった時の誠実と愛

2節を見ると、エレミヤを通して、神様がご自身の民に対し、彼らの誠実と愛と従順を覚えておられることが語られています。「若かったころ」「婚約時代」とは、出エジプト時代のことを言っています。誠実(ヘセド)と愛(アハバー)は、イスラエルの神に対する愛の態度を示しています。誠実(ヘセド)とは、神から人への場合には「変わらない真実な愛」を意味しており、人から神様への場合には「与えられている契約の恵みに対する誠実さ」を意味しています。N.H.スネイスと言う学者は、アハバーを「選びの愛」、ヘセッドを「契約の愛」と言っています。すなわち、「選びの愛」とは、選ばれるに値しない者を一方的に選んで下さる神の絶対的な恩寵です。神から遠く離れているものに対し、遠くから現れて、「わたしは限りない愛をもってあなたを愛している」と語り掛けて下さるのです。

その愛に対して、心からの忠誠と従順をもって主に応答することが、私たち人間の側における愛です。神の愛に対する応答としての愛です。出エジプトの時、イスラエルは、呟いて不信仰な発言をしています(出エジプト14:10~12、15:24)。しかし、その事については一言も述べられていません。主に対する反抗的な罪とは見られていないのです。すなわち、主は、私たちの内に「誠実と愛と従順」を見ていて下さるのです。

二、イスラエルの背信

そのような神様のご愛にもかかわらず、イスラエルは、しばしば神から離れ、罪と咎を犯し、神の忌み嫌うものを持ち込み、神様に対して背信行為を行いました。

5節には、「むなしいものに従って行って、むなしいものとなったのか」と問いかけられています。6節は、民が神を全く無視していることが分かります。7節、神様の大きな恵みに関わらず、民は国を汚し、受け継ぐべきものを忌むべきものにしてしまいました。11節、彼らは結局、「栄光を無益なものに取り換えた」のです。それは、涌き水の泉を捨て、水ためを選ぶようなものだと言っています。私たちは、神様に対して、その様に背信行為をすべきではありません。

三、初めの愛に帰れ、との主の招き

黙示録2章1~7節をご覧ください。エペソの教会についてのみことばです。エペソの教会は、その行いと労苦と忍耐について、すなわちその熱心さが褒められています。さらに、悪しき者の偽りを見抜いたこと、すなわち、彼らの正統信仰が賞賛されています。そして、3節にも、主の名のために「耐え忍んで、疲れたことがなかった」と褒められています。まさに理想的な教会の姿です。しかし、4~5節には、致命的欠陥とでも呼べるものが指摘されています。すなわち、初めの愛から離れてしまった、と非難されています。神に対する愛を失ったのではないのですが、彼らの愛はいつしか燃えるような深い愛がなくなっていたのです。エペソ人への手紙1章15~16節及び3章17~19節、さらに6章23~24節を見ると、かつてエペソの教会は、深い愛に燃えていたことが分かります。ですから、黙示録2章5節には、どこから落ちたか思い出し、悔い改めて、初めの愛に立ち返ることを勧めています。そのように、エレミヤ書においても、神様は、イスラエルに対して、初めの愛に立ち返るようにと招いておられるのです。

(結論)私たちも、自らと自らの信仰生活を振り返って、若かった時の誠実と愛に立ち返りましょう。