本日の講壇

聖書箇所 ヨハネの福音書6章1~15節

説教題 『増えていくパンと魚』

■序論

イエス様が奇跡を行う背景には人々に対する愛がある。パンが増える奇跡は少なくとも二回あった(マルコ6、8章)。イエス様は増やして下さるお方である。

 

1.暗算ができる弟子(1~7節)

イエス様のしるしを求めて大勢の群衆がつき従っていた。イエス様は弟子達と祈り、福音を伝える備えをしておられた。イエス様はこの翌年エルサレムで十字架にかかられたが、この時期になっても弟子達はなかなかイエス様に対して目が開かれていなかった。イエス様はピリポを試して質問された。ピリポの答えは現実的で計算上は正しかっただろう。しかし彼の答えには肝心なイエス様の御力が抜けていた。イエス様は無から有を生み出し、今あるものを増やすお方なのでパンを買いに行く必要はない。しかしピリポはイエス様抜きの解決を示した。イエス様を中心に据えた考え、計算、計画を立てるのが信仰である。

 

2.パンと魚を差し出す少年(8~10節)

アンデレの答えはさらに消極的だった。彼は少年がパン五つと魚二匹を持っているが、大勢の人達の前にはそれは何の足しにもならないと考えた。この状況ではたとえ弁当を持っている人でもそれを隠していたかもしれない。しかし少年は自分の持っている物をイエス様に差し出した。イエス様ならば増やして下さると信じたのだろう。イエス様はパンと魚を確認して群衆をそこに座らせた。問題の解決は自分のものを手放して、イエス様の御手に委ねることである。

 

3. 満たされた群衆(11~15節)

大勢の群衆にパンを与える難題を前に弟子達の姿は現実的、懐疑的、回避的だった。しかしイエス様はパンを取り感謝をささげ、群衆に分け与えた。小さい魚も同様に彼らがほしいだけ与えた。イエス様のなさることはダイナミックだが、残ったパンを一つも無駄にしない細やかなお方である。群衆は満たされた上に、初めに少年が持っていた以上のものが残った。群集は荒野のマナの奇跡を思い起こし、イエス様をモーセのような預言者と捉え、王にしようとしたのでイエス様は退かれた。イエス様は人々を救ういのちのパンである(648)。

 

■結論

私達の持てるものをイエス様に献げれば、多くの人々を満たすために、それを増やして下さると信じよう。イエス様への信仰に立ち、主の御業を期待しよう。

聖書   ヨハネの福音書6章1~15節

 

6:1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。

 6:2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。

 6:3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。

 6:4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。

 6:5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」

 6:6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。

 6:7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」

 6:8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。

 6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

 6:10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。

 6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。

 6:12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」

 6:13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。

 6:14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。

 6:15 そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。