本日の講壇
聖書箇所 ヨハネの福音書19章1~16節
説教題 『イエス・キリストの十字架』
■序論
今年も受難週を迎えた。イエス・キリストは「世の罪を取り除く神の子羊」として十字架にかかられた。「キリストの十字架我が罪のためなり」確信しよう。
1.ムチ打たれるイエス・キリスト(1~6節)~無慈悲の罪~
ピラトはイエス様の無罪を確信しながらもムチ打ちにして釈放しようとした。金属が付随するムチはそれ自体が死刑の道具に使われた。兵士達はイエス様に茨の冠をかぶらせ、紫の衣を着させて嘲い、暴行した。これだけ負傷したイエス様の姿を見せれば、祭司長やユダヤ人の役人たちも心を痛めて釈放するだろうとピラトは考えた。しかし、彼らはあくまでイエス様を十字架につけることを要求した。イエス様に対する無慈悲と憎悪がむき出されている(エペソ4:31、32)。宗教指導者達の姿は人を妬み、傷つくことを喜ぶ我が罪を現わしている。
2.神の御子イエス・キリスト(7~11節)~引き渡す罪~
ピラトはローマ法ではイエス様に何の罪も見出せなかったが、ユダヤ人達は律法違反による死刑を訴えた。神の子ではない者がそう自称するのは偽証罪、冒涜罪に問われるが、イエス様が神の子であることは真実である。ピラトは神の子を裁くことに何かしら恐れを抱き、改めてイエス様がどこから来た者なのかを尋ねた。イエス様は御自身を裁こうとするピラトの権威を全く恐れず、引き渡した者の罪を指摘された。イエス様をピラトに引き渡した者は直接手を下さなくてもその罪は大変重い。引き渡す罪は十字架の共犯者ではなく主犯である。
3. 十字架を負うイエス・キリスト(12~16節)~神を冒涜する罪~
ピラトはイエス様釈放に向け最後の努力をしたが、ユダヤ人達は彼にさらなる圧力をかけた。もしピラトがカイザルに反逆する疑いの目を向けられると、彼の立場は当然危うくなる。追い詰められたピラトはユダヤ人の要求通り、イエス様を引き渡すことを決めた。ユダヤ人たちは過ぎ越しの祭りが始まる時間までにイエス様の裁判の決着をつけた。ユダヤ人たちは先祖代々、真の神を王とする神政国家を否定し、カイザルを王として崇めた要求を通すために彼らこそ神を冒涜した。神を恐れない罪がイエス様を十字架につけたことを覚えよう。
■結論
Ⅰペテロ2:22~25 私達が生涯に犯す罪はすべて聖書に記されている。「イエス様を十字架につけたのは私です」血潮によって赦されたことを信じ、感謝しよう。
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