本日の講壇 説教題 『赦しの真髄』 ■序論 「罪の赦し」は救われた者が経験する大きな恵みである。人間は神の前に悔い改め、神との交わりが赦され、神の前に人間の一切の愚かな行為が赦され、神の前に正しく聖い者と見なしていただける。罪の赦しは神の愛の深さを私達に示す。また、罪に陥り易い私達は、何度も神の御前に悔い改めることで赦しを経験する。 1、傍観者の心(36~39節) 罪の自覚なしに赦しはなく、赦しなくして救いはない。私達には、神の御前に自らを罪人だと認められない愚かさがある。主イエスの足を涙で拭った女性は自らを罪人と認め、主の愛に喜んでいた。しかしパリサイ人シモンは裁きと批判に満ちた心で女性を見ていた。シモンは自分の罪に対しても傍観し、己を正しいと見なしていた。罪を罪と認めない傍観者は、神の愛の赦しを得る経験は出来ない。謙虚に罪を認めて主の前に出よう。 (マタイ23:27,28 創世記4:7) 2、赦しを得る者(40~47節) 主イエス例え話を用いて、罪の赦しとはどのような恵みであるかをシモンに示した。主イエスは、少ししか赦されない者は少ししか愛さないと、シモンに愛がないことを示した。女性は主を愛したから赦されたのではない。罪の赦しには条件は無い。ただ己の罪を認めて、主の前に出て行く者が赦しの恵みを得る。また罪は多い、少ないという量で計るものではない。罪の感じ方は人それぞれである。罪がないと思っている者と罪しかないと思っている者では違う。罪の捉え方一つで、赦しの恵みの深さは全く異なる。己の内に謙虚に深く罪を認める者は、深い神の赦しを経験して、主を愛する者となる。(ローマ2:1,3:10、3:23,24) 3、罪を赦す救い主(48~50節) 多くの人々は罪をも赦す主イエスに驚きを感じた。罪の赦しは主イエスにしか与えることは出来ない。人の許しは罪を指摘し、裁く真似事程度である。しかし、主イエスの与える罪の赦しは、一人の人間そのものを新しく創り変えて、新しい人生を与える神の御業である。罪の赦しこそ、主イエスを救い主として明確に証拠づける、大いなる神の権威である。(ルカ23:34) ■結論 Ⅰペテロ2:1~5 私達は罪に対して傍観者となるのではなく、謙虚に主の前に悔い改め、赦しを得る者となろう。罪を赦す救い主イエス・キリストのもとに来るように招かれている。十字架のキリストこそ赦しの真髄である。 |