本日の講壇 聖書箇所 マタイの福音書11章25~30節 説教題 『イエス・キリストの招き』 ■序論 マタイ11章には、イエス・キリストのなさっている働きに誤解や否定をした人々の姿が記されている。バプテスマのヨハネでさえも、主イエスが本当に待ち望んでいたメシアかどうかの確信が持てなかった。主イエスの奇跡や御業を見ても信じて悔い改めようとしないのはなぜか。それは、主イエスの救い主としての姿が自分の考えていたものと異なる現実を見るからである。人が自分の思ったこと、考えと違う現実を見ると全てを否定しようとするのは、昔も今も変わらない。主イエスは全ての人が、人間的な失望や躓きを越えて、唯一の神を知る者としての生き方をしてほしいと招いておられる。 1、神を知る者(25~27節) 主イエスは、御業を目の当りにしても信じない人びとの姿に嘆き、父なる神に祈る。その中で、この世の知恵者が福音や主イエスを受け入れないのは父の御心である。キリストの福音や使命は、自らを罪人だと認識する者、そして幼子のように信じる者が理解できる。イエス・キリストを通してでなければ、父なる神を知ることは出来ない。神を知る者となるためには主イエスを信じ受け入れるべきである。自分は正しい、自分はこのように考えているという自分中心の枠で主イエスを見る者は信仰が持てない。私達は神を知る者となるように主イエスに招かれている。自らの内に主イエスをまっすぐに仰ぐことを妨げる思いがないか探っていただき、遜って神を知る者としての歩みを全うして行こう。(Ⅰコリント1:18、イザヤ書29:14) 2、キリストの招き(28~30節) 神を知る者となるための招きは、疲れた人、重荷を負っている人にかけられる。疲れた人、重荷を負っている人とは、当時のユダヤ社会を支配していた律法主義に雁字搦めになっていた人々を指していた。律法を守らなければ罪人だと蔑まれる社会とは何と生き辛いものだろう。律法学者たちは人々にそのような指導をし、彼等に負いきれない重荷を負わせていた。律法に縛られ精神的に疲弊していた人々に、キリストは安らぎと新しいくびきを与えると言われた。それは、主イエスが共に歩む安らぎと、御言葉の導きというくびきである。それによって人は、雁字搦めの精神状態から解放され、救いがもたらされる。そして真の神の真実な姿を知ることが出来る。 (ローマ人への手紙7:4) ■結論 主イエスの招きは、神を知る者としての生き方への招きである。私達は救われた後も、神を知る安らぎと使命に生きる喜びをいただいている。 |