マタイの福音書18章114
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。
「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」

18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、
彼らの真中に立たせて18:3 言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、
決して天の御国には、はいれません。

18:4 だから、この子どものように、
自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。

18:5 また、だれでも、このような子どものひとりを、
わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。

18:6 しかし、
わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでも
つまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、
湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。

18:7 つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。
つまずきが起こることは避けられないが、
つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。

18:8 もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、
それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、
両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、
あなたにとってよいことです。

18:9 また、もし、あなたの一方の目が、
あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。
片目でいのちにはいるほうが、
両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、
あなたにとってよいことです。

18:10 あなたがたは、
この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。
彼らの天の御使いたちは、
天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。

18:11 〔人の子は、滅んでいる者を救うために来たのです。〕

18:12 あなたがたはどう思いますか。
もし、だれかが百匹の羊を持っていて、
そのうちの一匹が迷い出たとしたら、
その人は九十九匹を山に残して、
迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。

18:13 そして、もし、いたとなれば、
まことに、あなたがたに告げます。
その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。

18:14 このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、
天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

本日の講壇

聖書箇所 マタイの福音書18章114

説教題  『小さい者に目を向けよ』

■序論

神様の視点はいつも“小さい者に目を向ける”ことである。主イエスは御言葉を通して、私達一人ひとりが小さい者であること、そして、小さい者に目を向ける者となることを教えられる。

 

1.小さい者(15節)

天の御国では誰が一番偉いのかという弟子の質問に、主イエスは神様の三つの視点を示された。①子供のように悔い改めること、②子供のように自分を低くすること、③子供のひとりを主イエスの御名によって受け入れる者は、主イエスを受け入れることである。子供のようになるとは、もう一度自分が子供の性質を持つことではない。神の前に子供のような立場を受け入れることである。神様の愛の目は子供のような小さい立場を受け入れる者に注がれている。神の愛の視点や価値観を知り、自らも小さい者として生きて行こう。(ルカの福音書9:48)

 

2、小さい者につまずきを与えないように(6~9節)

さらに主イエスは神様の厳しい視点をも教えられる。それは小さい者につまずきを与える者こそ神の前にわざわいだという事実である。つまずきとは他の人に罪を犯させるような誘惑となる言動をすることである。神様は小さい者であるクリスチャンが信仰の歩みの中で時にはつまずきに直面することは避けられないとする。むしろ、自分が他者にとってつまずきとなる事を神は厳しい視点で見られる。人をつまずかせる原因は外から出てくるのではなく、自分の生活や自分自身の中にある。小さい者をつまずかせることから守られるために、神の前に子供のような者として歩むことを求め続けよう。(Ⅰヨハネ535

 

3、小さい者に目を向ける神(10~14節)

最後に主イエスは、神はご自分の視点を共有することを私達に求めておられることを示す。最も小さい者が滅びることは神のみこころではない。神は迷う羊がご自分のもとに戻ってくるまで捜し続けるお方である。小さい者に注がれる神の愛の視点を共有して、私も小さい者に目を向ける生き方をする決心をさせていただこう。(箴言5:21)

 

■結論

私達は神の前に小さい者として立つことを導かれている。神の前に小さい者として、神の愛の視点の中で歩んで行こう。そして、小さい者を愛する者となろう。