聖書 ヨハネの福音書6114

6:1 その後、イエスはガリラヤの湖、
すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。

6:2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。
それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。

6:3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。

6:4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。

6:5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、
ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」

6:6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。
イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。

6:7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、
二百デナリのパンでは足りません。」

6:8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。

6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。
しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

6:10 イエスは言われた。
「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。
そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。

6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、
すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、
彼らにほしいだけ分けられた。

6:12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。
「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」

6:13 彼らは集めてみた。
すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、
人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。

6:14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、
「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。

本日の講壇2017129

聖書箇所 ヨハネの福音書6114

説教題 『五千人の給食』

■序論

五千人の給食の奇跡は、福音書に描かれているが、著者によって視点が異なる。この出来事で本書が記しているイエス様の三つのみことばに注目しよう。

 

1、「どこからパンを買って来て」(1~6節)

イエス様の3年半の公生涯のうち初期の宣教の舞台はガリラヤである。イエス様は山の上で弟子達を教えた。そこに大勢の群衆がイエス様の噂を聞きつけて集まって来た。彼らは目に見えるしるしを求めていた。イエス様は弟子のピリポにをためして、「どこからパンを買って来て」と尋ねられた。ピリポは「イエス様、どこにもパンを買いに行く必要はありません。解決はあなたにあります」とは答えられなかった。イエス様は、どこに解決を求めるかよりも、誰を信頼するのかを御覧になっている。問題解決の答えはイエス様に求めよう。

 

2、「人々をすわらせなさい」(7~10節)

ピリポは200デナリのパンでは群衆が食べるパンには足りないと答えた。また、アンデレは少年の弁当(パン五つと魚二匹)では大勢の人々には何にもならないと話した。しかし、この状況で自分の弁当を差し出した無名の少年の方がよほどイエス様の弟子らしいだろう。神であるイエス様は無から有を生み出し、今あるものを増やして下さるお方である。イエス様は弟子達にパンを求めて奔走するのをやめて、座るように言われた。座るとは神の前に出ることである(詩4610。動き回る前に、まず神の前に座し、静まり、祈り、神を待ち望もう。

 

3、「ひとつもむだにしないように」(11~14節)

イエス様はパンを増やす奇跡の前に人々を座らせた。パンを増やし、人々を養うのは天の父なる神であることを人々に知らせるためだった。「過越が間近」(4節)「草が多かった」10節)は春の季節を現わす。かつて荒野で40年間もイスラエルの民にパンと肉を備え、養われた神を思い起こさせる。イエス様は人々が満腹になった後も、パンをむだにせず、集めさせた。それを他にも必要な人々に分け与えるためである。これは物資のパンのことだけではない。私達の信仰も神の恵みをむだにせず、神の恵みに感謝し、分かち合って生きよう。

 

■結論

イエス様に捧げることが自分も他の人々も豊かにする唯一の道であると信じよう。増やして下さる神に信頼し、より多くの人と神の恵みを分かち合おう。