聖書箇所 ヨハネの福音書8章12~20節 説教題 『光あるうちに』 ■序論 誰もが人生において絶望や苦しみを経験する。しかし、神は私達がそれらを乗り越えられるように希望と喜びの光を与えて下さることを信じよう。 1、世の光であるイエス・キリスト(12節) ヨハネの福音書でイエス様のことを「人の光」(1:4)、「やみに打ち勝つ光」(1:5)、「すべての人を照らすまことの光」(1:9)と紹介している。イエス様は弟子達に「地の塩、世界の光」(マタイ5:13、14)と教えておられるが、まず御自身が世の光であることを宣言している。姦淫の現場で捕えられた女性は、暗やみの行いを明るみに出された。しかし、たとえ行動に移さなくても、人々の心には罪という暗やみが満ちている。だから、光であるイエス様を心にお迎えすることによって、罪赦され、光の子どもとされることを信じよう。 2、真実な証言者であるイエス・キリスト(13~19節) パリサイ人はイエス様が世の光であるとの証言に反発した。しかし、イエス様は人々がよく分かるように「わたしは…である」と表現している。そもそも地上にいる人間は天の神のことを見たことがない。だから、神は御子イエス様を人としてこの地上に遣わし、イエス様を通して神の姿を現わされた。父と御子は別人格だが、その証言は一致している。イエス様の証言は、真実である。神は御子イエス様を信じる者たちにも真実な証言者になってほしいと願っている。真実な証言者にはいつも神が共にいて下さることを信じよう。 3、献金箱の前に立つイエス・キリスト(20節) イエス様はこれらのやりとりを神殿の婦人の庭と呼ばれる献金箱のある所でなされた。仮庵の祭りでは最初の晩に四つの金の大燭台に火がともされた。その火は強い光となって、エルサレムの町の隅々に達したようである。祭りはすでに終わり、燭台の下にある献金箱のある所では、まことの光であるイエス様が立っておられる。イエス様は人々の罪による暗やみに光を照らすためにこの世に来られた。キリスト者もまたこの世で神の光を照らすために存在している。私達が遣わされている所で、暗やみを照らす小さな光となろう。 ■結論 闇の力はますます強くなるが、神の光が照らされる所ではリバイバルが起きる。今は恵みの時、光あるうちに、光の子どもとして、神の光を伝えよう。 |