聖書 ヨハネの福音書8章1220


8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、
いのちの光を持つのです。」

8:13 そこでパリサイ人はイエスに言った。
「あなたは自分のことを自分で証言しています。
だから、あなたの証言は真実ではありません。」

8:14 イエスは答えて、彼らに言われた。
「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、
その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、
また、どこへ行くかを知っているからです。
しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。

8:15 あなたがたは肉によってさばきます。
わたしはだれをもさばきません。

8:16 しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。
なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。

8:17 あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。

8:18 わたしが自分の証人であり、
また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」

8:19 すると、彼らはイエスに言った。
「あなたの父はどこにいるのですか。
」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。
もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」

8:20 イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。
しかし、だれもイエスを捕えなかった。
イエスの時がまだ来ていなかったからである。

本日の講壇2017625

 

聖書箇所 ヨハネの福音書8章1220

説教題 『光あるうちに』

■序論

誰もが人生において絶望や苦しみを経験する。しかし、神は私達がそれらを乗り越えられるように希望と喜びの光を与えて下さることを信じよう。

 

1、世の光であるイエス・キリスト(12節)

ヨハネの福音書でイエス様のことを「人の光」(14)、「やみに打ち勝つ光」(15)、「すべての人を照らすまことの光」(19)と紹介している。イエス様は弟子達に「地の塩、世界の光」(マタイ51314と教えておられるが、まず御自身が世の光であることを宣言している。姦淫の現場で捕えられた女性は、暗やみの行いを明るみに出された。しかし、たとえ行動に移さなくても、人々の心には罪という暗やみが満ちている。だから、光であるイエス様を心にお迎えすることによって、罪赦され、光の子どもとされることを信じよう。

 

2、真実な証言者であるイエス・キリスト(13~19節)

パリサイ人はイエス様が世の光であるとの証言に反発した。しかし、イエス様は人々がよく分かるように「わたしは…である」と表現している。そもそも地上にいる人間は天の神のことを見たことがない。だから、神は御子イエス様を人としてこの地上に遣わし、イエス様を通して神の姿を現わされた。父と御子は別人格だが、その証言は一致している。イエス様の証言は、真実である。神は御子イエス様を信じる者たちにも真実な証言者になってほしいと願っている。真実な証言者にはいつも神が共にいて下さることを信じよう。

 

3、献金箱の前に立つイエス・キリスト(20節)

イエス様はこれらのやりとりを神殿の婦人の庭と呼ばれる献金箱のある所でなされた。仮庵の祭りでは最初の晩に四つの金の大燭台に火がともされた。その火は強い光となって、エルサレムの町の隅々に達したようである。祭りはすでに終わり、燭台の下にある献金箱のある所では、まことの光であるイエス様が立っておられる。イエス様は人々の罪による暗やみに光を照らすためにこの世に来られた。キリスト者もまたこの世で神の光を照らすために存在している。私達が遣わされている所で、暗やみを照らす小さな光となろう。

 

■結論

闇の力はますます強くなるが、神の光が照らされる所ではリバイバルが起きる。今は恵みの時、光あるうちに、光の子どもとして、神の光を伝えよう。