聖書箇所 Ⅰヨハネ3章7~17節 説教題 ■序論 クリスチャンが追及する生き方とは、どんな時代、状況、環境であっても、「キリストが歩まれたように歩む」ことである。それは神の義を行う生き方であり、互いに愛し合う生き方である。 ■本論 1.義を行う者となる(7~10節) “義を行う”とは、“イエス・キリストが正しいお方として存在しているのと同じように正しく存在する”ということである。それは、ただ単に神の義を主張して、実行するということではない。義を行う者とは、信仰によってキリストと同じ正しい“品性”を持つ者となることなのである。キリストの正しさが私たちの品性として現れるようなクリスチャンとならせていただこう。キリストの品性は、何かをして身に着けるものではない。ヨハネは罪との決別によって義の品性が備えられると言っている。それは、罪を罪だと知りながら罪を犯し続けることから解放され、信仰によって神の義を与えられた者の持つ恵みである。自分が正しいと己の義に立ち、罪を認めない者は、己の罪の姿に気づかない。しかし、罪人だと自分で認めることができる者は、神の前に出て悔い改め、今までの生き方を方向転換できる。神の種をいただいたクリスチャンは、神を信じ、十字架のキリストを仰ぐ限り、罪を犯せない者とされ、義を行う者となることができる。 (ローマ3:21~24) 2、互いに愛し合う者となる(11~17節) 義を行う者は、互いに愛し合うことを通して、神の義を証する者となる。神と私の関係の中で、恵みとしていただいた神の義は、他者との関係においては愛という形をとって実践されるものである。互いに愛し合うことができない、あるいは、人を許すことができない人間の本質にあるものは憎しみである。聖書は、憎しみを人殺しの根底にあるものとして記している。しかし、イエス・キリストは、人の憎しみと恨み、妬みが渦巻く十字架において、神の愛と赦しを現わされた。ヨハネは罪の世に渦巻く憎しみに対して愛を強調している。クリスチャンとは、例え憎しみに満ちた世であっても互いに愛し合うことを通して神の愛と赦しを目に見える形で示す存在なのである。私たちは、十字架の愛、神の愛を知ったならば、友ために命を捨てるほどの愛を現わす者へと導かれる。 (Ⅰペテロ4:8、Ⅰヨハネ4:7) ■結論 私たちは神の義を行う者なるために、罪を解決していただこう。神の種を内にいただき、互いに愛し合うことで神の義の品性を現わしていこう。 |