本日の講壇(2018.6.10.)
聖書箇所 詩篇1篇1~6節
説教題 『幸いな人』
■序論
詩篇1篇には、主の教えを喜びとする者の幸いについて書かれています。主の前に「正しい者」と「悪しき者」の違いが述べられています。主を信じる私たちは、幸いな、正しい者の歩みを目指しています。
■本論
1、幸いなこと(1節)
悪しき者、罪人、あざける者、すべて主を畏れない人です。幸いなことはその人たちと同じ歩みをしません。主の前に幸いな歩みは、主を畏れない人と同じはかりごとをせず、同じ道に歩ます、同じ座に着かないことです。
2、主の教え(2節)
幸いな人は主の教えを口ずさみ、思い巡らします。主の教えは、主が私たちに与えられたみことばであり、おきてであり、いましめです。みことばは神御自身のことを説き明かします。また、わたしたちにとって、力や喜びが与えられるものです。
3、植えられた木(3節)
幸いな人は流れのほとりに「植えられた」木のようです。植物の生命線である水がそばにあり、守られています。葉は枯れず、いつも満たされ潤っています。元々そこで育った木ではなく「植えられた木」というのは、私たち自身のことを現わしています。わたしたちは、罪が赦されて、救い出されて、主の御側に「置かれた」ものです。
4、悪しき者(4-5節)
悪しき者は、1-3節に書かれている幸いな人、正しい者とは対照的です。風にふきとばされる「もみがら」のようです。そこにいのちはなく、捨てられてしまうものです。正しい者の集いに立つことさえできません。
5、2つの道(6節)
詩篇1篇全体に、そして6節に正しい者と悪しき者が比較され、対照的に書かれています。2つの道のいくつくところは全く別の場所です。主に知られているか、滅びさるかの両極端の場所です。
■結論 私たちは、主の教えを喜びとする幸いな歩みに招き入れられています。幸いな、主の側におり、守られている、主に知られているところに行く着く歩みを進みましょう。