本日の講壇2018930.)

聖書箇所 ルカの福音書152532

説教題 『神に立ち返る』

 

■序論:先週は、放蕩息子のたとえの前半、弟息子の箇所を読みました。このたとえは、弟息子の帰りを祝っただけで終わりません。後半は兄息子について書かれています。兄と弟、二人の息子と父親の関係は、何を象徴しいてるでしょうか。

 

■本論

 

1、兄の怒り(25-28節)-父と共に喜べなかった-

  兄は怒りました(28節)。その怒りの対象は弟でなく父でした。弟の帰りを祝っている中に加わるのもいやで、家に入ろうとしませんでした(28)。自分は父に仕えてきたのに、戒めを守ってきたのに、と不満をもらします。いつも父のすぐ側に居ながら、兄息子は父の愛に気づいていませんでした。父親の心を全く理解していませんでした。

 

2、父の愛(29-32節)-兄息子をなだめた-

  家に入ろうとしない兄息子を父が出てきてなだめました(28節)。兄は父に対して弟のことを「そんな息子」(30節)と突き放したように言っていますが、父は、兄息子に対して「おまえの弟」と言いました。財産を食いつぶして帰ってきた弟息子を喜んで迎えて祝い、怒って家に入ろうとしなかった兄息子を出てきてなだめた父親。どれだけ2人を愛していたでしょうか。

 

3、父なる神さま

  父親の愛は、父なる神さまが私たちを愛しておられる姿を例えています。

 父に仕えていた兄息子も、父の元を出て行った弟息子も、父の愛に気づいていませんでした。快楽を求めて去って行く、表面的に仕える、悔い改めた人を受け入れない、2人の息子の姿は現代の私たちにも当てはまります。息子を愛する父は、すべての人が主の元に立ち返るのを待っておられる父なる神さまのことです。

 

 

■結語 ルカ15章は、羊、銀貨、放蕩息子の3つのたとえがあります。放蕩息子のたとえでは、弟息子だけでなく兄息子も父の愛に気付いてなかったことが書かれています。このたとえが示すように、どのような過程で失われた状態になっていても、父なる神様はいなくなっていたのに見つかった一人一人のことを大喜びで迎え入れて下さる御方です。