♪♪ こっちの広場 ♪♪


私たち古知野キリスト教会の交わり広場です。

ショートメッセージなどを掲載しております。是非、こっちの広場でみことばを味わってください。


放蕩する神様  (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2015. 7.26

天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに

朝早く出かけた主人のようなものです。

彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。

それから、九時ごろに出かけてみると、

別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。

そこで、彼はその人たちに言った。

『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』彼らは出て行った。

それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。

また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。

『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。

『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。

『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』

こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。

『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、

最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』

そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。

最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、

彼らもやはりひとり一デナリずつであった。

そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。

『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。

私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

しかし、彼はそのひとりに答えて言った。

『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。

あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。

自分の分を取って帰りなさい。

ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。

自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。

それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』

このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」

マタイ20:1〜16

数年前に、ティモシー・ケラーというアメリカの牧師が、

『「放蕩」する神』(2011,いのちのことば社)という本を出しました。

ちょっと目を引き、首を傾げるタイトルです。

放蕩という言葉は、浪費する、散財するという意味で、

この言葉を聞くと、大抵“放蕩息子”で知られるある弟の話を思い出すのではないでしょうか。

確かにこの本はルカの福音書15章に登場する、放蕩息子の物語からのメッセージです。

しかしこの物語の中で、放蕩しているのは弟息子だけでなく、

実に父親になぞらえられた神ご自身なのだと、著者のティモシー・ケラーは書いています。

財産の生前分与を受けたドラ息子はその身代を一瞬にして食いつぶし、

ボロボロの姿でトボトボ家路につかざるを得なくなる。

一方父はそんな息子を憐れんで、遠くから駆け寄り抱きしめ、

家に連れ戻し、特別な品で身なりを整えさせ、パーティーまで開く始末である。

この父親つまり神こそ放蕩の限りを尽くしているのです。

冒頭のぶどう園のたとえも、同じ放蕩する神の姿が垣間見えます。

たとえ話は不思議で、聴く人にとって響き方が異なります。

今日あなたはどの立場でこの話を聴くでしょうか?

「先の者」でしょうか?

“放蕩息子”には弟を妬んだ兄がありました。

「後の者」でしょうか?

神の前に、小さい者・弱い者は蔑ろにされません。

働けない苦しみ、仕事のない辛さ、さ迷い歩き、不安な日中を過ごし、

自らの存在価値が危ぶまれる恐怖を、わたしは知っていると、

主ご自身が理解していて下さいます。

ぶどう園=天の御国、ぶどう園主人=イエス様、

労務者=イエス様に従って来た人たちとそれぞれにたとえられています。

共通して、私たちは「気前の良い」主人―神をこの話で知ることができます。

但し、その主人に出会った時の気持ちは人それぞれです。

多く働いたと思う者にはもちろん、僅かしか働けなかったと気落ちし、

申し訳なく過ごす者にも、神様は同じ恵みの報酬を与えて下さいます。

日没近くになってもぶどう園に招いて下さり、天国に生きる事を赦しておられます。

杓子定規な神ではなく、柔らかな心を持ち、

惜しみなく私たちに与える神について聴いた私たちはどんな心で過ごすでしょうか?

放蕩する神様は、「相当のもの」?!、すなわち義を与えて下さる主です。

シャローム!

キリストの教えとは?  (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2013. 2.24

ガリラヤの風かおる丘でひとびとに話された

恵みのみことばを、

わたしにも聞かせてください。


『讃美歌21』57番、日本基督教会出版局、1997


礼拝で聖書が読まれる前に、この讃美歌を歌うことがあります。

この歌詞にある「恵みのみことば」とは、

山上の説教と考えることができます。


イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、

民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。

イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。

それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、

てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。

イエスは彼らをいやされた。

こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、

ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。

この群衆を見て、イエスは山に登り、

おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。

そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。


マタイの福音書4章23節〜5章2節


教会へのよくある質問は

「キリスト教は何を教えていますか?」というものです。

その回答の一つが、この有名な山上の説教のはじめに見い出せます。

イエス様は何を教えられたのでしょうか?

開口一番、「幸いかな!」と感嘆の言葉が発せられます。

この言葉が、八つ、また九つ続きます。

イエス様についてきた人たちは、幸いを求める人たちでした。

苦しみの中にある人たち、それぞれの暗闇を抱えて生きる人たちでした。

そこに主イエスは、幸いとはこれだ!と新しい生き方を教えられます。

実に「わたしに従いなさい〜FollowMe!」という呼びかけに応えてきた者たちに、

「あぁなんと幸いかな」とおっしゃるのです。

これは神様の視点です。

聖書の「幸い」は偶然にやってくる、happenに由来するhappy!であることではなく、

神様から与えられる祝福blessingなのです。

「幸いかな」と言う言葉が繰り返される山上の説教の冒頭には、

一体どこが「幸い」なのだと思われる人々の姿があります。

例えば、「心の貧しい人」「悲しむ者」「迫害され・・・悪口を浴びせ」られる人たちです。

彼らがなぜ「幸いかな」と言われるのか、それぞれ理由が書いてあります。

どうぞ聖書を開き、続く3〜12節を読んでみて下さい。

どの理由も実はこの「幸い」という言葉を、神ありきのもので、

すべて天からくる祝福だと知らないと、理解できない事柄です。

イエス様は、ご自身に従う者は祝福を受けると教えられました。

山上の説教に示される数々の教えは、

私たち人間が救われるには「こう生きなければならない」というものではなく、

主イエスに従うならば「こう生きることができる」という言葉です。

今年は2/13から約6週間、イエス・キリストの十字架を覚える受難節となります。

イエス様は「悔い改めなさい!」と私たちに呼びかけられます。

神様に向き直り、神様への道を真っ直ぐに歩みなさいというのです。

その為に、わたしがこの世に来て、あなたの苦難を負ったのだからと。

またイエス・キリストは語りかけられます

−「わたしに従いなさい。」

神様への真っ直ぐな道を一緒に歩もうではないか。

新しい天の御国の生き方を、今ここではじめようではないか。

それは何と幸いな生き方ではないか。

あなたはもうその祝福の中にある。

イエス様は、新しい生き方、

神様が一緒に居られるからこそできる、祝福の歩みを、

私たちに教えて下さるのです。


幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。


詩篇119篇1節

王であり、しもべなるキリスト  (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2013. 1.27

「アラブの春」と呼ばれる解放運動が昨年より中東を席巻しました。

次々と長期独裁政権が崩れ、自由が訪れたように伝えられました。

と思っていたら今騒がれているアルジェリア人質事件が勃発です。

国が解放され、人が自由になるには、何と多くの血が流され、

戦いがあるのかと考えずにはおられません。

聖書、殊に今一緒に読んでいるマタイの福音書に目を留めると、

イエス様が人々を罪の縄目から解放する為に、

この世に来られた姿が記されています。

まずイエス様は王様として紹介されます。

ユダヤ人の望むような目に見える国、社会、政治のシステムでなく、

私たちの生き方、いのちを根底から覆すために、

「天の御国」、神の国を引っさげて登場します。

「悔い改めよ!」というのが、解放の為のメッセージでした。

悔い改めとは、ただの反省や後悔ではありません。

考え方をガラッと一転させる。

回れ右をして、180度変える。

神の方へ完全にくるっと向き直ることです。

神に再び向かうこと、そして神の国を生きることに、

解放があると言うのです。

では、一体どのように私たち人間は解放され得るのでしょうか?

その秘密はイエスが「ナザレ人」である処にあるというのです。

ナザレはガリラヤ地方の貧しくさびれた村で、

そこから「何の良いものが生まれよう」と言われる程、

人々から見下され、虐げられていました。

この田舎町はユダヤ人の嘲笑の的でした。

「ナザレ人」は蔑称、蔑まれた呼び名でした。

実に、クリスマスに自分を低くし、卑しくされ、

天より降られたイエス様は、人間としても卑しい町に住まわれ、

「ナザレ人」とさげすまれた呼び名を身に負って生きて下さったのです。

マタイは、「ナザレ人」であるイエス様がなぜ解放者たるかを、

ひとつの預言を通して説明を試みました。


彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、

悲しみの人で病を知っていた。

人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

・・・しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、

私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、

彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

イザヤ書53:3・5


以上「苦難のしもべ」として有名な箇所です。

マタイは伝えます。

ここに記されたしもべこそ、あの「ナザレ人」イエスであり、

私たちの神への背きの罪、その結果の咎から解放する者である、と。

神様のしもべは、神の御旨に従おうとするとき、

様々な批判に直面することが必死です。

イエス様をキリストと知っている者でも

イエス様の成そうとすることに待ったをかけようとします。

バプテスマのヨハネが初めイエス様に洗礼を授けることを拒んだ通りです。

また悪魔が囁くどころか、堂々と挑んできます。

「神の子ならば」こうあるべきである、と。

けれども、主イエス・キリストは、

一心に神の御心《人類の救い》を果たそうと従順の道を歩まれるのです。

それは正にしもべとしての道でした。

このクライマックスに、あの十字架があるのです。

十字架を通して、私たちに解放の道、自由と喜びの救いの道が与えられました。

洗礼そして荒野の誘惑の次にやってくるのが「ガリラヤの春」です。

険しい解放の道への戦いが、

イエス様が私たちの解放の為に戦って下さる宣教生涯が、幕を開けるのです。

「アラブの春」の行方は今のところ誰にも分かりません。

しかし、私たちは、ただひとりの正しい方の血が流されたことによって、

自由がもたらされたことを知っているのです。

この主に、ハレルヤ!皆さんに、シャローム!

これから始まる?!  (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2012.12.30

クリスマスが終わるとちょっとさみしいような、

何か気の抜けたような感じになることがあります。

何個かのクリスマス会の予定に済と書き入れ、

クリスマス礼拝、祝会、キャンドル・サービスと過ごす。

そこまで来ると、何かゴールが見えてきた気がします。

しかし、ちょっと待って!と自分に待ったをかけます。

この世に来られたイエス様の生涯も、

マリアとヨセフの子育ても?、

マタイの福音書(28章中、現在2章目)も

まだまだこれからではないかと。

野球に例えるならば、どうでしょう。

キャンプが終わって、オープン戦を迎えた。

さぁ始球式&開幕戦だ!あーよかった。終了。とならないでしょう。

交流戦も、死のロードも、天王山と言われる夏に生まれるだろう名勝負も、

マジックの点灯も、クライマックス・シリーズも、

リーグ優勝も、日本一も、まだこれから。

ペナントレースは、ようやく始まったばかりなのです。

マタイ、またマタイの教会は、このクリスマスに誕生したイエス様の行く末を知っています。

イエス様は、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、

宣教を始め、弟子を召し、訓練し、派遣された。

町々を巡り、数々の奇跡を行い、罪人を招き、

天の御国を解き明かされました。

最後には、十字架にて死なれ、墓に葬られ、三日目に復活される。

この福音書はそこまで見届けられた後に記されました。

イエス様は救いの道を与えるために私たちの元にこられました。

そしてご自分の十字架の死によって、

そのメシア−救い主としての使命を全うして下さいました。

イエス様によって築かれた救いの道は今、

全世界の人々(この江南に住む私たちももれなく!)に開かれています。

実にこの聖書の真実は初期のクリスチャンによって既に体験されたものでした。

マタイまたその教会は、その偉大な救いを知り、味わい、

天の御国の福音を伝え広めようと生涯を掛けていきました。

クリスマスが来て、そして過ぎ去っていくとしても、

私たちに与えられた救いとその喜びを基とした信仰生活は終焉を迎える駅ではありません。

むしろ、ここからスタートするのです。

アドヴェント(待降節)に2つの問いを投げかけました。

あなたはイエスを誰だと信じるか?

あなたは誰と共に生きるか?

この答えは私たちが決心し、下していかなければならないものでしょう。

しかし同時にクリスマス・シーズンだけではなく、

一度切りでもなく、

日々新たに確認されていくものではないでしょうか。

イエス様は、この地上において、

神様と共に生きる生涯を全うされました。

父なる神に祈りつつ、聖霊に導かれて、その救い主としての生涯を全うされました。

正に生涯掛けて「インマヌエルの主」であることを余す所なく体現されたのです。

讃美歌や聖歌に収められている賛美曲は、しばしば3〜4番まであります。

そこで私たちの救いの物語が展開されます。

クリスチャンとなること、

あるいはそれ以前の暗く絶望的な生活の回顧から始まり、

成長や派遣・宣教を経て、

ゴールは天国、永遠の御国へと旅立っていくのです。

1番だけ歌っていては、あまりにももったいない。

私たちの人生においても、

賛美の詞のように主が導かれる救いの道を更に深みへと進み、

主が私たちを高みへと昇らせて下さることを味わって生きたいと願わされます。

年末、感謝会を持ちました。

新年、どんな期待を抱いて始めることができるでしょうか?

「ここまで」導いて下さった主が、「これから」も私たちと共におられ、

生涯を全うさせて下さいますように。

インマヌエルの主を覚えて、シャローム!

クリスマスの贈り物  (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2012.11.25

クリスマス・キャロルが街のあちこちで流れる季節となりました。

多くの人が何か浮かれ模様で微笑みながらイルミネーションの下を行くのを見ると、

なんだか日本もキリスト教国のように思えてきます。

私たちはクリスマスに、愛を信じたくなります。

愛を確認し、愛を表したいと願います。

そして、プレゼントを贈り合います。

ある貧しい夫婦はその日暮らしの生活で、

互いにプレゼントを買うお金がありませんでした。

二人はそれぞれに何とか工面して、

夫は妻に、妻は夫に一番喜ぶものを贈りたいと必死に考えました。

妻デラは、夫が祖父から代々譲り受けた金時計にあうプラチナの鎖を買うために、

自慢の滝のように流れる褐色の髪を美容院で切り、売りました。

一方、夫ジムは妻のあの美しい髪にあう宝石で縁取りされているべっ甲の櫛を調達するために、

大事な金時計を手放してしまいました。

これはオー・ヘンリーの最も有名な短編小説「賢者の贈り物」という物語です。

著者はこの短編の最後に、

この愚かな者たちこそが全ての贈り物をする人たちの中で一番の、

また真の賢者だと述べます。

幼子イエス・キリストもプレゼントをもらっています。

誰からでしょうか?

サンタクロースからではありません。

東方の博士達からです。

先ほどの賢者という言葉の下地はこの聖書の物語です。

彼らはイエスを礼拝するために、はるばる東の国から星を頼りに旅をし、

遂に幼子の家に入り、その幼子を見つけ、礼拝するのです。

これが賢者がクリスマスにしたことでした。

博士達は何故にそうしたのでしょう?


神はそのひとり子を世に遣わし、

その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。

ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、

神が私たちを愛し、私たちの罪のために、

なだめの供え物としての御子を遣わされました。

ここに愛があるのです。

(ヨハネの手紙第一 4章9・10節)


この聖書の一節を読むと、

まず神が私たちに愛を示すために

ひとり子イエス・キリストをプレゼントされたことが分かります。

ここに至極の愛が示されます。

「なだめの供え物として」は、

他の訳(新共同訳)では「罪を償ういけにえとして」とあります。

究極の犠牲の愛です。

私たちへの愛を示すために、イエス・キリストは命を捧げてくださいました。

ただ一度の、完全な、十字架の死によって。


東方の博士の宝の箱には、

黄金・乳香・没薬の三種の贈り物がおさめてありました。

没薬は埋葬の時に使われるものです。

ご自身のいのちを与え、私たちの罪を償うために、

主イエス・キリストはこの世に来られたのです。

ヨハネの福音書3章16節は「小聖書」と呼ばれる、聖書のエッセンスが詰まった一節です。


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、

永遠のいのちを持つためである。


クリスマスに、私たちをこれほどまでに愛し貫いて下さったイエス様に想いを巡らし、

私たちもこの命 −この心と人生全て− を、

彼にプレゼントすることは愚かなことでしょうか?

この救い主(メシア、メサイア、キリスト)であるイエスを信じ、

礼拝し、世に証しし、私たちが互いに愛し合うことが、

真の賢者の在り方ではないでしょうか。

このクリスマスに、あなたは何をイエス様にプレゼントしますか?

神に栄光、地に平和がありますように!

仕える道にある喜び  (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2012.10.28

ノーベル医学・生理学賞に日本人が選ばれた

という吉報が列島を駆け巡り、人々を沸かせました。

日本からまた一人偉人が誕生したと言えるでしょう。

子どもの頃、小学校の図書館には世界の偉人伝が並んでいたのを覚えています。

医学分野では「クリミアの天使」ナイチンゲール、「近代日本医学の父」野口英世、

「密林の聖者」アルベルト・シュヴァイツァー等が挙げられるでしょうか。

このシュヴァイツァーは、赤道直下のアフリカの医療と伝道に貢献し、

世界平和にも尽力しました。

クリスチャンならずとも彼の生涯に感銘を受けた人は

大勢いるのではないかと思います。

そんな彼の言葉です。

あなたの行く末に何が待っているのか、私にはわかりません。
ただ一つわかっているのは、
人に仕える道を見いだした者のみが真に幸せになる、ということです。

(ジーン・ワトソン、内田みずえ訳、よろこび The Spirit of Joy、6深い満足、いのちのことば社、1996)

丁度、私たちは「喜びの書簡」であるピリピ書の最終章を読んでいます。

パウロは最後に当たっても、

「私は主にあって非常に喜んでいます」(4:10)

と語ります。

なぜでしょうか。

それはピリピ教会の人たちが休眠期間を経て再び開いた花のように、

献身者としての患難をパウロと共に担う思いを抱いてくれたからでしょう。

それと同時にこれは、神様を喜ばせることでもありました。

一読すると4章の後半部は、

パウロがピリピ教会から届けられた「贈り物」についてのお礼状かと思われますが、

むしろ「感謝なき感謝」と表現されるように、直接的謝辞は述べられていません。

確かにパウロは贈り物によってピリピ教会の彼への心遣いや思いを知ることが出来ました。

がしかし、それ以上に

この贈り物をピリピ教会から神様への捧げ物・献品として理解しました。

そして彼は

ピリピ教会と「私の」また「私たちの」神様とを連帯付けることに成功しています。

私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。
エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。
それは香ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。
(4:18)


旧約の全焼の犠牲の煙のように、

ピリピ人の思いは天に届いて、

パウロを遣わした神を喜ばせるというのです。

ピリピ教会の使徒パウロへの贈り物は、

実に神を礼拝することと直結すると、

パウロは贈り物への感謝を超え、

ピリピ人の芽生え出た「心遣い」を喜ぶのです。

更に開花した仕える思いが、たわわな実を結ぶように

すなわち、キリストに結ばれた献身者は良い業に溢れ、

その義の実が、最後の審判の時(キリストの日)に

益となるようにと彼らに告げています。

終わりに、今正に仕える道を歩きはじめたピリピ人たちの為にも抱きました。

決して平坦ではない献身の道に、どうして喜びを覚えるのでしょうか。

ジーン・ワトソンはこう記しています。

危機に直面して初めて、ほんとうに大切なものが何か気がつくことがあります。
それは、私個人の“満足”や“権利”、
隣人の“満足”や“権利”と深く関わっているということです。
個人の尊厳、成功、自由、所有物、力は、
お互いに愛をもって責任を果たしている場合にのみ手に入れられるのです。

神が人間を造られたのですから、
神様の究極の目的のみが、私たち人間に真の満足をもたらします。(前掲書)

私たち人間を救うために

「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」

キリストの道を同じ心構えで私たち献身者も生きること、

救いを互いに全うすることに私たちの真の喜びがあるからです。

あなたがたの必要を全て満たしてくださる

神のシャロームがありますように!

ただ十字架によって  (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2012.9.30

「十字架+α」の福音。

+αと聞くと何かおまけがつくようでちょっといい気分になりますが、

仕事で+αとなると面倒が増え損する気持ちになります。

さて、「十字架+α」と言われると、

私たちの中にどのように響くのでしょうか?

このαとは、「人間的なもの」です。

ピリピ人への手紙3章において、

パウロは敵対者たちが救いの条件として課している「人間的なもの」を

「ちりあくた」と表現しています。

人のつけたしるしや自らの良い行い、

栄誉をどうしてもくっつけたくなる。

目に見えるしるしや評価で、

自分が救われていることを確信して安心したくなる。

「人間的なもの」を頼みにし、間違った教え、薄められた福音を飲んでいる。

ピリピ人を脅かしたのは、こんな典型的なカルトじゃないかと思うのです。

私たちクリスチャンはそんなんじゃない!と立ち上がりたくなるでしょうか。

但し、実にパウロはキリストを信じるある群れが

「十字架の敵として歩んでいる」ことを涙ながらに告げ、

愛するピリピ教会にもその波が及んでいると勧告します。

初めてこういった実際を知ったとき、私は結構なショックを受けました。

すべての人は、罪を犯したので、
神からの栄誉を受け取ることができず、


パウロはローマ人への手紙3章23節の中で

このように人間の状態を記しています。

ある説教集を読んでいたら、次のように語られていました。


神からの栄光を受けられなくなった人間は、

自分で自分のために栄光をつくるようになる、

それは当然のことでありましょう。

つまり、自分の値打ち、自分が生きていることの意味などを

神からあたえられていただけないとするならば、

自分でつくるほかないでありましょう。


そして、神から栄誉を失った人間は、

自ら栄誉を生み出さなければなくなった。

しかし、その栄誉も自分の罪を材料として造るにほかならず、

そんなことでできた栄光は恥でしかないと、続くのです。

(竹森満佐一、購解説教・ピリピ人への手紙(下)、pp263〜264、日本基督教団出版局、1990)

十字架の敵対者たちは、自らの栄光・栄誉を宗教的熱心さに置きました。

そして、そこに完全な清めと救いへの到達を作り上げたのです。

私たちの中にもこの誘惑は潜んでいます。

自分の奉仕の業績や立場を誇りたい、

どうしても目に見える形で救いの保証が欲しい、

「いい人だ」「ちゃんとできている」と認められることで

クリスチャン、献身者として安心を得たい・・・等など。

ですが、結局私たち人間がいくら徳を積もうとしても、

そこに見えてくるのは神や人への愛を全うできない、

みじめな人の姿でしょう。

なぜなら、律法を行うことによっては、
だれひとり神の前に義と認められないからです。
律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

ローマ人への手紙 3章20節


そんな私たちにパウロは、「人間的なもの」に頼まず、

真に十字架だけを頼り、

十字架を味方とする歩み方、

信仰生活を送ることを勧めます。

「私を見ならえ」とまで言うのです。

そうパウロが大胆に語る根拠は、ただ神の恵みにあるのです。

ただ、神の恵みにより、
キリスト・イエスによる贖いのゆえに、
価なしに義と認められるのです。

ローマ人への手紙 3章24節


神の恵みが最大限に現われるのが、十字架です。

私たちはこの神の恵みを知り、この恵みに留まり、この恵みを生きるのです。

それで十分。

どんな+αも十字架の救いに一切必要ないのです。

十字架こそが唯一の救いの道であり、いちいち他に間口をとる必要はありません。

また十字架のみが一致の原点であり、

教会の基であることを共に確認し、祝福を祈ります。

献身の原点 主からの召命 (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2012.8.26

夏のスケジュールを見返すと、キャンプ、キャンプという文字が躍っていたことに気が付きます。

私は小学校4年生の時、小学生夏キャンプに参加し、

そのキャンプの二晩目に信仰告白したことを覚えています。

「私はクリスチャン」と自覚した原点です。

信仰の出発点を自分の人生の中に見出すことができるならば、その人は幸いです。

そして、何よりもそこに神様の私への呼びかけがあり、

今もその恵みに立つのだと確信することができる人は、

祝福の道を歩んでいるのです。

神は仰せられた。
「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。
私があなたを遣わすのだ。・・・」

出エジプト記 3章12節


あの「十戒」で有名なモーセは、

エジプトにおいては王子でありながら人を殺めた逃亡者、

そしてミデヤンの地ではさすらい人でした。

しかし、神様はそのモーセに燃える柴の中から呼びかけ、

モーセはその不思議な神様の介入に畏れながらも、

「はい。ここにおります。」と答えるのです。

そこで神様はモーセに、これから神様ご自身が起こされる出来事を告げ、

モーセに神の民イスラエルの出エジプトを導くように使命を与えられます。

モーセはその果てしない御計画に驚き惑い、そして二つの質問をするのです。

最初は「私は何者でしょうか。」という問い。

次は「神様、あなたの名前は何ですか。」です。

実は、これは二つですが一つの質問ということができます。

なぜなら、私たち人間が何者かは、私たちを創り、私たちの誕生を計画され、

私たちに生きる目的を与えられた神様を知ることによって、

はじめて示され、私たちは理解し得るからです。

つまり神はどんなお方で、何をされようとしておられるのかは、

私たちの人生に大きく関係するのです。

大いにつながっているのです。

神様はモーセの問いお答えになります。

神様は

「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主」

だと自己紹介されます。

この人モーセは神様の民。

神様と契約を結んでおり、神様に属している者であります。

また神様は「わたしは、『わたしはある。』という者である。」と仰せられました。

私はあろうとすれば、何にでもなれるものである。

全能、万能の神であるとモーセに告げられました。

言い換えれば、この全能の神、万能の神は、

モーセの必要な全てになることができ、彼の全てを満たすことができるということです。

全ての全てとなってくださる方、それが私たちの主なる神です。

大丈夫!さぁ行くのだ。

万能の主、全能の神、すべてのすべて、

オールマイティの神があなたの側についている。

味方となって一緒にいてくださる。

私があなたを選び、私があなたを遣わすのだ。

人々を罪の中から救うための働きに、さぁ出掛けなさいと、

励まし送り出して下さる神様があられる。

これこそが信仰者の献身の原点です。

私たち教会は、我らが主なるイエス・キリストにあって、神の子とされました。

私たち教会もこの世界が罪から救われ、回復される為に、

神に呼ばれ、派遣されている者なのです。

今日、神様は私たちひとりひとりの名を呼んで、

「聖書」を通して呼びかけ、

神様の民として語りかけて下さっています。

主への献身が人の幸い、祝福への道です。

あなたの人生にも万能の主が伴われますように。

今、すべき事 一致と教会形成 (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2012.7.29

日々、今日やるべき事は何なのかと考え祈りつつ一日を進めていきます。

予定通りに行ったり行かなかったりと様々ですが、

「今、すべき事」をきちんと果たせているかをよく問いかけます。

今年、教会ではピリピ書に共に聞き、献身者としての姿を覚えています。

パウロは獄中でピリピ再訪問を希望しながらこの手紙を書きますが、

パウロの在、不在に拘わらず、ピリピ教会が「今、すべき事」はこれだと教えます。

ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。

− ピリピ人への手紙 1章27節 −


私たち献身者である教会が、イエス・キリストがもたらして下さった救いと神の国、

その恵みに留まる生活をすることです。

パウロはその信仰生活を送る秘訣として、教会の一致を指南します。

まず私たちは神からの信仰の賜物を同じくしている点で既に一致しています。

次にお互いのそれぞれの賜物(他者を信仰的に助けるための能力や才能)を認め合うことにより、

愛し合い仕え合うことです。

神さまから与えられた信仰の賜物、それぞれの賜物を喜び用い合うことによって、

一致が保たれ、教会が建て上げられていく。

ピリピ教会の「今、すべき事」は一致によって成されていくのです。

ところで、パウロがピリピ教会にこのような勧告をしたのは、

その一致を乱す敵対者たちがいたからです。

彼らは律法主義的な、キリストの十字架を否定する者たちだったでしょうか。

またピリピの教会には一致の敵となる、高慢の思いもはびこっていたかもしれません。

そこで、パウロは「キリスト讃歌」(2:6〜11)と呼ばれる当時の讃美歌の一片、

教会の信仰告白を持ち出し、一致の基としてのキリストを宣べ伝えるのです。

確かに、私たちは高きに昇りたいと願いますが、自分では到底それができません。

一方で、自分が低く謙(へりくだ)ろうとしても、常に完全にそれができるわけでもない。

自分の力では、自分を本当に高めることも、また卑しくすることも不可能なのです。

しかし、私たちには、その道を示して下さるこのキリストという基があります。

パウロはそれを指し示したのです。

私たちが賜物を用い仕え合うのに、この主イエスの謙り、

キリスト道を歩む者の姿を見出せるのではないでしょうか。

リック・ウォレンは「人生を導く5つの目的」の中でこう述べています。

あなたの霊的賜物は、あなたのためではなく他の人のために与えられているものです。

同じように、他の人に与えられている賜物は、あなたのためのものでもあるのです。

聖書は、

「霊的賜物が私たちの一人一人に与えられているのは、教会全体の益となるためです」

と教えています。

神がそのように計画されたので、私たちはお互いを必要としているわけです。

私たちがそれぞれ与えられている賜物を用いていく時、

私たち皆がその恩恵にあずかることができるのです。

もし他の人がその賜物を用いないなら、あなたはその恩恵にあずかることはできず、

一方あなたが自分の賜物を用いなければ、他の人がその恩恵にあずかることもできないのです。

ですから、私たちは自分に与えられている賜物を発見し、育てていくように命じられているのです。

これがプレッシャーではなく、教会の喜びでありますように。

祝福を祈ります。

福音の前進 そこにある喜び (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2012.6.24

2012年も上半期が過ぎようとしています。

今年の目標『全てのクリスチャンは献身者』をより深めていこうと、教会でピリピ書を読み始めました。

ピリピ書はイエス・キリストにある良い知らせ(福音)を受けて、喜びまた喜び続けるパウロ、

そして共にその喜びに与るピリピの人たちの間で交わされた手紙です。

がしかし、2000年程前の地中海沿岸において、

しかも一個人からある教会へ向けて書かれた書簡が、

今の日本、尾張地方にいる私たちに何をかたるのでしょうか。

果たして、私たちにとって福音はそんなに遠くに求めなければならないものなのでしょうか?

マケドニア地方のピリピへの伝道は、実にヨーロッパへの第一歩。

そして宣教の歴史を辿れば、日本宣教のはじめと言えるかも知れません。

ピリピ書において、私たちは私たちの福音のはじめをも見ることができるのです。

パウロは挨拶文の後、彼の所信表明をしています。

・・・あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、
このことを私は喜んでいます。
そうです、今からも喜ぶことでしょう。
− ピリピ人への手紙 1章18節 −


ピリピ書は、獄中書簡であり、「喜びの手紙」です。

この二つの呼び名に矛盾を感じるかもしれません。

ですが、パウロは囚われの身にあっても、福音の前進ゆえに喜び、

また不自由で難儀な状況でも救いの道を歩んでいることを喜び続けているのです。

確かに、パウロの投獄中、ある人々は不純な動機、党派心から宣教を試みます。

不思議なことに、日本へのキリスト教伝来も

プロテスタント宗教改革に対するカトリック対抗改革の動きから派生したものです。

(もちろんザビエルらイエズス会宣教師達は

「全世界に出て行って総ての造られた者に福音を宣べ伝えよ」

とのモットーを掲げて世界伝道へと繰り出したのですが。)

福音はそんな神様の救いの歴史の流れの中で、私たちの元にも届けられていったのです。

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、
キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを
私は堅く信じているのです。
− ピリピ人への手紙 1章6節 −


パウロの信念はここにありました。

彼の希望も然りです。私たちの信ずる所はどこにあるでしょうか?

良き知らせである福音はピリピより更に前進し、その喜びは薄れることなく随行し、

あなたのほんの近くに、この身に及んでいるのです。

たとえわが身は不自由な、難儀な、絶望とも思える状態にあっても、です。

この苦難さえも大きな神様のご計画の摂理の中にあり、

福音のはじめ手であり完成される方である主は

ご存じであると安んじることが、私たちにはできるのです。

イエス・キリストによってもたらされた救いは、私個人が「新しく生まれた」だけでは終わりません。

それは周りの人へと分かち合われ、共有され、広まってゆくのです。

また誕生したいのちは、成長し、救いの完成へと輝きを増していくのです。

秋までピリピ書を読んでいきます。

どうぞこの福音への献身者として、共に分かち合い、

その喜びに与り続けて行こうではありませんか。

喜びの源であり喜びそのものである神様の平安がありますように。

外へ。 近所、そして世界へ! (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2012.5.27

私たち教会は今、ペンテコステ(聖霊降臨祭)をお祝いします。

イエス様を裏切って逃げ、恐れて一所に身を隠していた弟子たち。

彼らは天に昇られたイエス様のかわりに送られた聖霊によって力を得た時、

大勢の様々な地方や国から来た人々の前で大胆に語り、エルサレムの家々で、神殿で、

そして「ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで」
(当時の中心は地中海世界でした)

イエス・キリストを宣べ伝えて行ったのです。

復活されたイエス様の姿をその目で見ても信じなかった程疑い深い人物として名をしられるトマスは、

後にインドまで伝道したという伝説を残します。

あんなにユダヤ当局や人々を恐れ、失望し、縮こまっていた弟子たちが、

なぜこんなにも変わったのでしょうか?

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
テモテへの手紙第二 1章7節


それはやはり「わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」

と約束して下さったイエス様が、聖霊を送ることによってそれをかなえて下さっているから。

そして、何よりもそれがイエス様の願うことであり、私たちに託して下さった使命だからでしょう。

「世界は君を待っている」

高校2年生の時、ある先生の本を購入したついでにサインを求めたところ、

私の名前と一緒に上述の言葉を書いて下さいました。

そして、この言葉は私が留学を決意するひとつのきっかけとなりました。

外の世界に目が向くひとつの契機でした。

逃げ遅れた弟子たちは、復活されたイエス様に出会い、ウチから外へ再び出ていくことができました。

聖霊を受けた弟子たちは、自分の家、近所、町内、街・・・

そしてある者は、違う地方や外国へと福音を携え出て行きました。

これは私たちにとって、あまりにもかけ離れた所で起こっている事でしょうか?

そうかもしれません。しかし、私たちは毎週日曜日だけでなく、

毎日でもその報告を聞き、また自分らもその働きに参与していくことができるのです。

毎週変わる宣教報告が玄関付近のパネルに掲示されています。南米、ヨーロッパ、アジア、東北、

そしてこの東海地方・・・福音は今も止むことなく前進しています。

そして私たちは、全部は難しくても、その中の一個でも気に掛けて、毎日の祈りに覚えることができます。

ひょっとしたら、この私も何かできるかも。そんな気付きが与えられるかもしれません。

今月から私の友人がタイに宣教師として赴きます。

彼女はサッカーを通して、子どもたちにイエス様の福音を宣教し、

どのように生きたらよいのか教育し、共に生活するのです。

福音はウチに留めて置くものではなく、外で分かち合われるものです。

さぁ、私たちは今何ができるでしょうか?ウチから外へ。

インマヌエルの主の祝福を祈ります。

教会の誕生日 (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2012.4.29

すべての造られたものには、はじめがあります。教会にも、はじめがあるのです。

私たちのはじめは、誕生日としてお祝いされます。

実は、教会にもその誕生日をお祝いする日があるのです。

それはペンテコステと呼ばれます。イースター(復活祭)同様、

その年毎の暦によって日にちが異なるのですが、2012年は5月27日になります。

誕生日にはさまざまなエピソードがつきものです。

皆さんの誕生日はどのような時だったのでしょうか?

教会の誕生日にも語り継がれるエピソードがあります。

懐かしい逸話というよりも、不思議で新鮮な物語かもしれません。
(新約聖書・使徒の働き/使徒言行録2章に記されています。)

教会はエルサレムで生まれ、イエス・キリストが十字架に架かり死なれてから

50日(ペンテコステは、5旬節:旬=10日)後がその誕生日と言えるでしょう。

誕生した後には名前が付けられます。

新約聖書の原語、ギリシャ語のエクレーシアの訳語が「教会」です。

これは「召集する」という言葉から派生したもので、

元々は市民が公的な目的で集まる会、集会・議会をさしていたそうです。

後にクリスチャンの集うエクレーシアは、「イエスのエクレーシア」、

「キリストのエクレーシア」と命名されました。

その名の通り、「教会」は神さまに召集され、公にイエス=キリスト(救い主)と告白して礼拝し、

十字架に架かったイエス様の復活を宣べ伝えているのです。

新しいいのちが生まれると、そこに喜びが湧き上がります。教会の誕生日には、

三千人の新たな誕生があったと聖書にあります。イエスまたキリストの「教会」の誕生は、

そのイエス・キリストに連なるクリスチャンの誕生でもあったのです。

教会誕生のエピソードを、そしてそこで生まれ育まれてゆくいのちを、

このペンテコステに「イエスのエクレーシア」、「キリストのエクレーシア」で、

思い巡らし、分かち合いましょう。

最後に、教会の誕生時に語られたメッセージはこれでした。

「この曲がった時代から救われなさい。」

「教会」、すなわち「イエスのエクレーシア」、「キリストのエクレーシア」に、

そのエクレーシアの主こそに、救いの道があるのです。

そして、私たち「教会」はこれを証し、宣べ伝えてゆくのです。