キリストの誕生とヨセフ

「キリストの誕生とヨセフ」マタイの福音書1章18節~25節

今日からアドベントに入りました。これからクリスマスまでイエス・キリストの誕生についてお話をします。今日は、マリヤの夫ヨセフから学びます。イエス・キリストとヨセフは法律では親子の関係ですが、血がつながった親子ではありません。しかし、ヨセフが救い主の父となることは、神様のご計画でした。マタイの福音書1章はアブラハムの系図からはじまります。マタイはユダヤ人にイエス・キリストが救い主であることを伝えるためにマタイの福音書を書きました。ユダヤ人にとって系図は自分が誰であるかを他人に伝えるために大切なものでした。マタイは、ヨセフの系図を記すと共に、ヨセフがダビデの子孫であることを知らせようとしています。なぜなら、旧約聖書の預言で、救い主メシヤはダビデの家系から生まれると記されていたからです。

ヨセフが救い主の父として選ばれたのは、ダビデの子孫というだけではありません。神様はヨセフの信仰を見て、ヨセフを救い主の父として選ばれたのです。信仰とは、神様のことば、約束を信じること、信頼することです。旧約聖書を見ると、ノアは神様に洪水から救われるために、箱舟を作るように命じられました。ノアは神様のことばを信じて、山の上で家族8人と共に協力して大きな箱舟を作りました。そして、洪水が起こり、ノアの家族と箱舟の中に入った動物たちは洪水から助けられましたが、それ以外は皆、洪水で滅ぼされてしまいました。アブラハムは75歳の時に神様と出会い、神様の約束を信じて親族から離れ、神様の示す地へと出かけました。また、神様はアブラハムの子孫にカナンの地を与えると約束されましたが、アブラハム夫妻にはこどもができませんでした。そんなアブラハムに神様は空の星を見せながら、あなたの子孫はこの星のように増えると言われたのです。また、アブラハムはその言葉を信じたとあります。そして、アブラハム100歳、妻サラ90歳にして二人に男の子が生まれたのです。ノアにしてもアブラハムにしても、状況は簡単に神様のことばを信じられるような状況ではありませんでした。しかし、ノアもアブラハムも、神様のことばを信じました。それが神様に信頼する二人の信仰だったのです。

ヨセフの場合も簡単に神様のことばを信じられるような状況ではありませんでした。マリヤとヨセフは法律では夫婦でしたが、まだ、正式な夫婦としての生活は始められていませんでした。ユダヤ教の婚約期間は約1年あります。それなのに、ヨセフはマリヤが身ごもっていることに気付きました。ヨセフはどれほど驚いたことでしょう。マリヤが自分以外の男性と関係を持ち身ごもってしまったと考えたからです。自分はマリヤに裏切られたと感じたことでしょう。当時、姦淫の罪は重く、死刑に値する罪でした。ヨセフはマリヤの罪を公にして、死刑にすることもできました。しかし、マリヤを愛するヨセフは、マリヤのために内密に去らせようとしたとあります。それは、離婚するということです。しかし、そんなヨセフに夢で、主の使いが現れ言われました。20節「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているのは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」ヨセフは24節「主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ」とあります。ヨセフは、主の使いのことばを信じたのです。ヨセフにとって理解できなかったことは、マリヤが自分を裏切り他の男性と関係を持ったということでした。あのマリヤが自分を裏切るわけがないと信じていても、マリヤが身ごもっていることに変わりはありません。この事実をどう理解したらよいのかヨセフは悩んでいたのです。しかし、主の使いのことばをとおして、マリヤが他の男性と関係を持ったのではなく、神様の計画として子を身に宿したことを理解したのです。もちろん、ヨセフはマリヤがどのような方法で子を宿したのか、その方法は理解できなかったでしょう。しかし、マリヤが身ごもったのは自分を裏切ったのではなく、神様のご計画であることを受け入れたのです。そこに、先ほどの、ノアとアブラハムに通じる信仰があるのです。

では、このことは私たちに何を教えているでしょうか。新約聖書では、行いではなく信仰によって救われると教えています。ここで言われている信仰こそ、ノア、アブラハム、ヨセフに繋がる信仰です。それは見ずに神様のことばを信じる信仰とも言えるでしょう。イエス・キリストが処女のマリヤから生まれたこと。イエス・キリストが十字架に付けられ、殺されて三日目に復活された事。この二つは、この世の常識では理解できないことです。それゆえ、昔から、マリヤは他の男と関係を持ち、それを隠すために神によって身ごもったと言い訳をしたと考えられました。また、復活についても、弟子たちの作り話だと言われました。しかし、聖書は、イエス・キリストは神の子であり、罪の無い神の子が肉体を持って生まれ、私たちの罪の身代わりとして死なれた。また、イエス・キリストは神の子であったので、死んで三日目に復活して、天に昇って行かれたと説明しています。また、それを信じる者は救われると教えています。聖書は、イエス・キリストがどのようにして、処女マリヤから生まれたのか説明していません。また、イエス・キリストがどのようにして死から復活して天に昇って行かれたのかその方法を教えていません。神が私たちに求めておられるのは、神様の御業を理解することではなく信じることです。ある時、飛行場でこどもがお父さんに質問しました。「お父さん、あんな大きな飛行機がどうして空を飛ぶことができるの。」お父さんは息子に答えて言いました。「大丈夫だよ。お父さんを信じて、一緒に乗っていれば、ちゃんと目的地にいくことができるから。」お父さんは息子に飛行機についての技術的説明はしませんでしたが、この飛行機が安全であることを伝えたのです。信じることと理解することは違います。信じるとは約束して下さった方を信じるということです。時にそれは人間の常識を超えた出来事かもしれません。なぜなら、私たちが信じる神様はこの世の常識を超えられたお方、常識に縛られないお方だからです。イエス・キリストは神の子でありながら、私たちを救うために生まれ、十字架で死んでくださり、三日目に死より復活して、天に昇って行かれました。これがクリスマスの神様から私たちに与えられた祝福の約束です。あなたはこの神様の約束を信じますか。

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