人の願いと神の時

「人の願いと神の時」伝道者の書3章1節~8節

先程、伝道者の書3章1節から8節までをお読みしましたが、ここで言われてる「定まった時期」または、「すべての営みには時がある」と言われている時間は、運命論として予め備えられた時間があると言う意味ではありません。全ては神様が支配されており、その時間を神様ご自身の意思で定められているという意味です。2節に「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」とあります。私たちは偶然に生まれた者ではありません。神がその人に一番良いと思われた時にいのちが与えられ誕生しました。私たちは生まれる時と生まれる場所(家族)を自分で選ぶことは出来ません。生まれる時と、生まれる場所(家族)は、神様がその人にとって一番良い時と家族を与えてくださったのです。また、「死ぬのに時がある」とあります。私たちの命は神様の御手の中にあり、死さえもその人にとって一番良い時があるという意味です。長く生きたから幸いな人生で、短い命だから不幸だとはいえません。人の命は長さではなく、内容が大切です。どのような人生を歩いたかです。父は70歳の頃から認知症が現れ、73歳の時、交通事故で亡くなりました。この3年間、母は父の看護でたいへんでした。病気で長く苦しむことは、本人にも家族にとっても辛いことがあります。もちろん、本人も家族も一日でも長く生きたいという思いがあるわけですが、人間の力でいのちを伸ばせるわけではありません。私たちはそのような思いも神様にゆだねる時、心に平安を持つことができるのです。列王記第二20章にヒゼキヤ王のことが書かれています。ヒゼキヤは病気になり死にかけていました。神様は預言者イザヤを通してこの病は治らない、あなたは死ぬとヒゼキヤ王に伝えました。ヒゼキヤは泣いて神様に祈りました。すると神様はヒゼキヤの祈りを聞かれ、イザヤを通して、あと15年寿命を与えると言われたのです。そのことば通り、ヒゼキヤの病はいやされ、その後、15年生き続け最期を迎えました。全ての祈りが聞かれるわけではありません。しかし、この時、神様はヒゼキヤの祈りを聞いて、彼の寿命をもう15年増やすことが彼にとって最善であると判断して、彼の寿命を15年延ばされたのです。

私たちは、明日のことを知ることは出来ません。それゆえ、人生は一寸先は闇だという人もいます。確かに、明日のことがわからない私たちにとっては、1時間先、1分先も闇と言うことができます。だからこそ、人は占い師に頼り、将来を預言する人に頼り自分の未来について知ろうとします。しかし、占い師にしろ預言者にしろ、未来を100%見通せる人はいません。未来を支配しておられるのは神様だけです。それゆえ、私たちは、私たちに命を与えてくださった神様に、現在の事、未来のことを託すことによって自分の将来に希望を持つことができるのです。

創世記の37章から、ヤコブと12人の子供たちの話になります。ヤコブは4人の女性と結婚し12人の子を得ましたが、ヤコブはその中でも一番愛するラケルの子ヨセフを特別に愛しました。それゆえ、ヨセフは兄弟たちから憎まれました。ある時、ヨセフをおいて、兄弟たちが羊を飼いながら外に出かけていました。父ヤコブはヨセフに兄たちの様子を見に行くように命じました。ヨセフが兄たちの様子を見に行くと、ヨセフを憎む兄弟たちは、ここでヨセフを殺そうと相談し始めたのです。しかし、兄弟を殺すことは良くないとし、ヨセフを奴隷商人に売る渡すことにしました。ヨセフは兄弟たちによってイシュマエル人の商人に奴隷として売り渡され、エジプトへと連れて行かれてしまいました。兄弟たちに奴隷として売られたヨセフはどんな気持ちだったでしょう。39節からエジプトに売られたヨセフのことが語られています。奴隷として売られたヨセフでしたが、神様はヨセフと共におられました。ヨセフはポティファルと言う人の家で働きましたが、主人に信頼され奴隷であっても幸いな人生を歩んでいました。しかし、その幸せも長くは続きませんでした。主人の奥さんに目を付けられ、言い寄られるようになりました。ヨセフは何とか逃げようとしましたが、最後は、奥さんが主人に「このヘブル人が私にいたずらをしようとして寝床に入ってきました。」と、主人に嘘を言われ、ヨセフは監獄に入れられてしまいました。しかし、そこでも神様が共におられ、監獄の長に信頼される者になりました。そして、その監獄に二人の囚人が送りこまれてきました。一人は王の献酌官ともう一人は料理官です。ここで二人は不思議な夢を見ました。ヨセフは二人の夢を聞き、それは、神様からの預言的な意味がある夢で、三日の後に献酌官は元の地位に戻され、料理官は木につるされて殺されるという夢だと夢の意味を解き明かしました。三日後、ヨセフのことば通り、献酌官は元に地位に戻され、料理官は木につるされて殺されました。そして、ヨセフは献酌官に自分のことを説明し、元に地位に戻ったら私のことを覚えてくださいと願いました。しかし、献酌官はヨセフのことを忘れてしまいました。その二年後にエジプトの王も不思議な夢を見て、この夢を解き明かす者を探させました。この時になって、初めて献酌官はヨセフのことを思い出し、エジプトの王の前にヨセフを連れて来たのです。エジプトの王はヨセフの夢の解き明かしを聞いて、ヨセフに他の人の無い知恵があることを認め、ヨセフをエジプトの総理大臣に任命し、これからエジプトに起こる飢饉に備えさせたのです。

ヨセフは一夜にして、奴隷の身分からエジプトの総理大臣に任命されました。その後、ヨセフがエジプトの王の夢を解き明かした通りに、エジプトに7年間の豊作が訪れ、次に7年間の飢饉が全世界を襲いました。しかし、エジプトには、ヨセフが貯えさせた食料がありました。多くの人々がエジプトの食べ物を求めて集まってきました。ヨセフの兄弟たちも食べ物を求めてエジプトにやって来ました。そこで、ヨセフと兄弟たちは再会しましたが、兄弟たちはエジプトの総理大臣がヨセフだとは気が付きませんでした。ヨセフは初め兄弟たちを憎み仕返しをしようとしますが、それでも、兄弟たちに自分がエジプトの総理大臣であることを明かして、兄弟たちを赦し、自ら和解の手を差し伸べ、兄弟たちと和解することができたのです。ヨセフは、兄弟たちにこのように言いました。創世記45章5節「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わせてくださったのです。」ヨセフは、確かに兄弟たちが自分を憎んで奴隷商人に自分を売ったのだけれどもその背後に神様のご計画があって、先に自分をエジプトに送り、飢饉に備え多くの人を救うためであったことを理解したのです。私たちの人生に起こる苦しみや試練は、その時は苦しみの意味はわかりません。しかし、後になってその意味がわかる時があります。ヨセフの苦しみは、飢饉で多くの人々を助けるための苦しみでしたが、また、兄弟たちと和解するために神様がヨセフに与えられた苦しみでした。ヨセフはその時になって、今までの苦しみが神様のご計画であることを知り、兄弟たちを赦す決心をしたのです。監獄の中でヨセフは一日でも早く、元の生活に帰りたいと望みましたが、ヨセフの願いはすぐには叶えられませんでした。そのように、私たちは、一日でも早く苦しみから解放されたい、問題を解決したいと願いますが、すべての時は神様が支配されています。私たちは、神様の最善の時を信じて祈り続けるだけです。聖書に「時が満ちる」という言葉があります。全ての時に神様の時があります。しかし、それはまた、私たちにとっても最善の時なのです。