「インマヌエル・神が共におられる」

「インマヌエル・神が共におられる」 マタイの福音書1章20節~23節

先週は、イエス様のお父さんヨセフとお母さんマリヤの信仰から学びました。二人はマリヤが聖霊によって身ごもるということを理解して信じたのではなく、理解できないけれども神様の働きとして信じて受け入れたというお話をしました。神様に造られた人間は神様の働きを全部理解できるわけではありません。また、神様も私たちにそれを理解できるように求めておられるわけではありません。神様が私たちに願っておられることは、理解することではなく、神様を信じて従うことです。マリヤもヨセフも処女が身ごもるということを神様の働きとして信仰を持て受け入れました。そこに二人の信仰のすばらしさが表されているのです。

イエス様はなぜ、処女のマリヤから生まれなければならなかったのでしょうか。それには、二つの理由があります。(1)罪の問題。私たちはアダムとエバの子孫として、罪をお犯しやすい性質「原罪」を持って生まれてきます。もし、イエス様の誕生がマリヤとヨセフの夫婦の関係による誕生であったならば、イエス様も原罪を持って生まれてきてしまいます。罪ある者は、人の罪の身代わりとなることはできません。それゆえ、「原罪」を待たない人間が必要になります。そこで、イエス様はマリヤの体を通して、人として誕生されたのです。イエス様は肉体をもってお生まれになられましたが、その本質は神の子であることは変わりません。それゆえ、イエス様は二つの性、神の性質を持ち。また、私たちと同じ肉体をもって生まれてくださったのです。これを「二性一人格」と言います。(2)イエス様は私たちの罪の身代わりとして死ぬために、私たちと同じ肉体を持つ必要がありました。神ご自身の体では、死ぬことはできません。それゆえ、イエス様は神の姿を捨てて、私たちと同じ肉体を持って生まれ、十字架の上で、ご自分のいのちを犠牲にしてくださったのです。

主の使いは、ヨセフに対して、生まれてくるこどもについて、このように伝えています。21節「ご自分の民を罪から救ってくださる方です。」当時のユダヤの国はローマ政府に支配されていました。ユダヤ人たちはこのローマ政府からユダヤ人を助け出し、ダビデ王が支配していた時のように、繁栄した国を取り戻すことを願っていました。それゆえ、彼らが待ち望んでいた救い主は、ダビデでのような偉大な王様でした。人々はイエス様にそれを求めましたが、イエス様は一切そのような活動はしませんでした。それゆえ、ユダヤ人たちはイエス様に失望し、祭司たちにそそのかされ、イエス様を十字架につけて殺してしまったのです。イエス様が人として生まれた目的は、私たちを「罪から救う」ためでした。そのために、イエス様は無実で十字架の刑を受けられ、いのちを犠牲にされたのです。イエス様はすべての人の贖いの代価として、ご自分のいのち(神の子いのち)を犠牲にされました。それゆえ、私たちの罪の代価は、イエス様のいのちの代価によって支払われ、私たちは罪の無い者ではなく、罪赦された者として神様の前に立ち、天の御国に迎えられる者となったのです。

22節と23節は、マタイの福音書の著者マタイが、イエス様が処女のマリヤからうまれたことが、神様の計画であり、旧約聖書のイザヤ書の預言の成就(完成)であることをユダヤ人たちに説明した箇所です。ユダヤ人は旧約聖書を神様のことばと信じ、毎週の礼拝で御ことばを学んでいました。その旧約聖書の中でも、イザヤ書は権威ある書として特別な権威が与えられていました。マタイはこの処女から男の子が生まれたという不思議な出来事を神様の働きであることをユダヤ人たちに理解してもらうために、イザヤ書の預言のことばを引用して説明しようとしたのです。イザヤ書7章14節「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」「インマヌエル」とは、マタイが訳しているように「神は私たちとともにおられる、という意味である。」このイザヤが見た幻「インマヌエル」という預言には二つの意味があります。(1)神が肉体を持って人の中に誕生するということ。処女降誕の預言ですが、これが、イエス様によって成就したという意味。当時のユダヤ教では、神様は偉大なお方で、神が罪人である人間と同じになるなど考えられないことでした。また、その神が人の汚れた世界に生まれてくださるなど考えられないことでした。それゆえ、イエス様がご自分のことを「神の子」と認めたことは、神を冒涜することばであり、死罪に当たる大きな罪とされていたのです。(2)聖霊という形で、私たちとともにおられる。イエス様は弟子たちとのお別れの際、ご自分が去って行った後、もう一人の助け主を遣わすと約束してくださいました。ヨハネの福音書14章16節「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」この約束が、使徒の働き2章のペンテコステの日に実現しました。人々を恐れて隠れていた弟子たちの上に聖霊が下ると、彼らは外に出て行って、力強くイエス・キリストが死より復活して、今も生きておられることを大胆に証し始めたのです。その結果、多くの人々がイエス様を信じて教会に加えられたとあります。

イエス様が汚い馬小屋で生まれ、馬がえさを食べる飼い葉おけに寝かされたことは、救い主が私たちのような罪人の心の中に住まわれる、預言的な意味があるとあるとある先生から聞いたことがあります。イエス様は私が来たのは正しい人をまねくためではなく、罪人を招くために来たといわれました。神様は罪人である私たちの心の中に住んでくださるお方です。しかし、聖霊様はこの目で見ることはできません。それゆえ、私たちは神様を見失ってしまうことがあります。しかし、それで、神様が私たちから去ったわけではありません。私たちが神様を見失っただけで、神様は決して私たちから離れることはありません。そのことをわかりやすく表したのが「あしあと」という詩です。これを読むと、作者が一番つらかった時、神様を必要としているときに神様を見失ってしまいました。しかし、実は、その時、神様が作者から離れたのではなく、作者が知らないところで、作者とともにおられ、しかも、作者を背負って歩いていた。それゆえ、あしあとが一つであったことを教えられたということです。私たちもこの作者とおなじように、つらいとき、苦しいとき、悲しいとき、神様を見失い孤独の中、一人にされたように思いがちです。しかし、神様は一度約束したことを覆すことはありません。どんな時でも神様はともにおられます。私たちが悲しいとき、苦しいとき、神はともにいてくださいます。それが、「インマヌエル」の神であり、イザヤが幻で見た神様の姿なのです。今、私たちは目には見えませんが、私たちを苦難から助け出してくださる神様により頼む者でしょうか。また、この世の生活に満足して神様を必要としない者でしょうか。おなっかいっぱいの者には、どんなごちそうも食べたいとは思いません。しかし、空腹の者には、おにぎり一つがごちそうになります。「こころの貧しいものは幸いです。」とイエス様は言われました。「心の貧しい」とは心がこの世のものでは満足できず、空虚な心を持つ者のことです。その人こそ、神様と出会って心の平安を持つ者です。今、私たちはなににより頼んでいるでしょうか。イエス様が誕生されたクリスマスの日、そのことを深く黙想したいものです。