「神の赦しと和解」

「神の赦しと和解」 マタイの福音書18章21節~35節

私たちは毎週礼拝の中で、主の祈りを唱えています。主の祈りの中に12節「私たちの負い目(罪)をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」とあります。また、14節15節に「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなた方を赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなた方の過ちをお赦しになりません。」とあります。この個所を読むごとに、人の罪を赦すことの難しさを感じます。今日は、「人の過ちを赦すこと」について学びます。

ペテロがイエス様の所に来て、赦しについて尋ねました。マタイの福音書18章21節「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」イエス様はペテロに答えられました。22節「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」当時の文献を調べると、律法学者たちは三回までは赦すように教えていたようです。ペテロはさらに、増やして七回までですかとイエス様に問いかけたのですが、イエス様はさらにそれを七十倍にするまでと答えられたのです。これはもう回数の問題ではなく、何回でも、何度でも赦しなさいという意味です。私たちはそれほど寛容な心をもって人を赦せるでしょうか。

創世記の終わりのほうに記されている、ヨセフと兄弟たちとの和解の話は、私たちに人を赦すことの大切さを教えています。兄弟たちが憎し見合うきっかけを作ったのは兄弟たちの父であるヤコブでした。ヤコブは四人の女性と結婚しました。当時は一夫多妻の社会ですから、それ自体は罪ではありません。しかし、ヤコブは四人の女性に中でラケルを一番愛しました。その結果、ヤコブはラケルの子ヨセフを特別に愛したのです。ヤコブはヨセフにあや織の長服を与えたとあります。明らかにそれは、ヤコブの兄弟たちに対する差別です。その結果、他の兄弟たちはヨセフを憎むようになりました。それが高じて、兄弟たちはヨセフを捕まえて、エジプトへ向かう商人にヨセフを売り渡してしまいました。ヨセフはエジプトで苦労して生活しますが、神様の恵みによってエジプトの総理大臣の地位に上り詰めました。おりしも世界規模の飢饉が起こり、ヤコブの子供たちはエジプトに食べ物を求めてやって来ました。そこで、兄弟たちはヨセフと再会しました。ヨセフは、兄弟たちと分かりましたが、兄弟たちはまさかヨセフがエジプトの総理大臣になっているとは思いもよりません。そこで、ヨセフは実の弟ベニヤミンを連れてくるように兄弟たちに強い口調で命令したのです。ヨセフとしてみれば、実の兄弟であるベニヤミンだけを身近に置いておきたいと考えたのでしょう。兄弟たちはベニヤミンを連れてくるために、いったん父の家に帰りました。二度目にヨセフの前に兄弟たちが来た時、ベニヤミンもそこにいました。そこで、ヨセフはわなを仕掛け、兄弟たちがベニヤミンだけをおいて国に帰るように仕向けました。しかし、ここで思わぬ事態が起こりました。自分を商人に売った張本人のユダが、ベニヤミンをかばい、ベニヤミンに代わって、自分がエジプトに残ると言い出したのです。その姿を見たヨセフは、兄弟たちを赦し、自分が弟のヨセフであることを兄弟たちに明らかにしたのです。ヨセフは兄弟たちにこのように言いました。創世記45章5節「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなた方より先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」8節「ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」ヨセフは兄弟たちが悪意を持って自分を商人に売り渡したが、神様はその悪を益に変えてくださり、多くの人々を飢饉から救うために、神が自分をエジプトに遣わしたのだと理解したということです。ヨセフは兄弟たちの悪の後ろにある神様の御手を見たので、兄弟たちを赦す決心ができたのです。

憎しみを持ち続けるとどのような事態を招くでしょうか。ダビデの例から学びましょう。ダビデがイスラエルの王に就任したころ。一つの事件が起こりました。ダビデの長男アムノンが腹違いの妹タマルを犯してしまいました。イスラエルの国では姦淫の罪は死罪に当たります。しかし、ダビデはアムノンの命を惜しみ、この事件をうやむやにしてしまいました。父ダビデが、アムノンを処罰しないのを見た、タマルの兄アブシャロムは自らの手でアムノンを殺し、国外に逃亡してしまいました。何年か後、将軍ヨアブはこの関係を回復するようにダビデを説得しました。ダビデは将軍ヨアブの言葉に従って、アブシャロムを赦しイスラエルの国に帰ることを許可しました。しかし、二人は真の和解はできませんでした。アブシャロムは王としてのダビデに失望し、自分がイスラエルの王になる決心をしたのです。アブシャロムは知恵を使ってダビデを王位から追い払う準備を始めました。それを知ったダビデは、アブシャロムを恐れ国外に逃亡しました。結局、ダビデとアブシャロムは戦うことになり、アブシャロムは戦死してしまいました。ダビデは、アムノンについで、アブシャロムも失ってしまったのです。ダビデとアブシャロムは、何度か和解のチャンスはありました。しかし、結局、ふたりは互いを赦すことができませんでした。憎しみは憎しみしか生みません。どちらかが先に相手を赦していたら、このような悲劇は防ぐことができたのではないでしょうか。

マタイの福音書18章のイエス様のお話に戻って。イエス様はペテロに「七回を七十倍にするまで(赦しなさい)」と言われた後で、一つのたとえ話を弟子たちにお話になられました。(23節~35節)ここに王様から一万タラントの負債を赦された男が登場します。一タラントというのは、欄外に六千デナリ相当とあります。また、一デナリは当時の一日分の労働賃金に相当とあります。一日の労働賃金の六千倍。また、それの一万倍ということですから、かなりの大きな金額になります。問題はこの男が、百デナリ貸していた男を赦すことなく牢屋に放り込んだことです。彼が貸した金額、百デナリは、百日分の労働賃金に値します。この男は、一万タラントの借金を赦してもらったにもかかわらず、百デナリの借金を赦すことができませんでした。その結果は、彼自身も牢屋に入れられてしまいました。このたとえ話の結論は35節「あなたがたもそれぞれ自分の兄弟たちを心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」ここに登場する一万タラントの負債を赦された男は、私たちの姿を現しています。私たちは、どれほどの罪をイエス様によって赦された者でしょうか。しかも、イエス様はそのために十字架について死んでくださったのです。しかし、私たちの姿は、また、百デナリの借金を赦せない男の姿と同じではないでしょうか。実は、人の過ちを赦すということは、相手のためではなく、自分のために必要なことです。憎しみ続けるということは、その憎しみに縛られるということです。それを手放した時、本当の解放感と心の安定を得ることができます。そのためには、自分の本当の姿(弱さ)を神様の前に差し出すことです。自分の罪を認めることは恐ろしいことです。しかし、その罪人を赦し愛し受け入れてくださる神様との信頼関係があるとき、泣き叫ぶ子供が、母親の懐の中で癒されるように、私たちの心の傷も癒されていくのです。まず、赦す決心をすることです。はじめは、感情がその気持ちについていきません。どうして赦さなければならないのか。どうしても赦せない感情が残ります。それでも、神様の赦しを覚えて、何度でも赦す決心することです。その繰り返しによって、私たちの傷ついた心が癒され、徐々に相手を赦す心の準備ができていくのです。