ヨセフとクリスマスの恵み

「ヨセフとクリスマスの恵み」マタイの福音書1章18節~25節

今日は、アドベントの二週目、マタイの福音書からクリスマスの恵みについて学びます。この時、マリヤとヨセフは婚約の状態でした。ユダヤの結婚の制度は、婚約期間が一年程あり、その後、正式に二人の夫婦としての生活が始まります。しかし、この婚約の期間でもユダヤの法律では正式な夫婦として認められていました。マリヤとヨセフはこの婚約の期間を過ごし、将来の正式な結婚のために準備をしていたのです。ところが、ヨセフにとって信じられないことが起こりました。ヨセフはマリヤが身ごもっていることに気が付いたのです。ヨセフは婚約期間であり、まだ、正式な夫婦ではなかったので、マリヤとの夫婦ととしての関係は持っていませんでした。それなのに、マリヤが身ごもるとは、マリヤが他の男性と関係があったとしか考えられませんでした。ユダヤの国では、姦淫の罪は大きく、死刑にあたる罪です。しかも、罪を犯した者に大勢が石を投げて殺すという、残忍な刑罰です。

ここでヨセフは、自分が裏切られたわけですから、マリヤを法的に訴えて、死刑にすることもできました。しかし、マリヤを愛するヨセフは、それを望みませんでした。そこで、ひそかに婚約を解消し、マリヤを去らせようとしたのです。そんな苦しみの中にいたヨセフに夢の中に主の使いが現れました。そして、主の使いはヨセフに言いました。20節21節「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」旧約聖書を信じるイスラエルの民にとって、夢を通して神様が御心を伝えるということは、伝統として信じられていました。マリヤは、自分からはヨセフに、なぜ、自分が身ごもったかを説明しませんでした。たとえ、説明したとしても、ヨセフはマリヤの言うことを信じなかったでしょう。それゆえ、神様はヨセフが神様のご計画を信じることができるように、夢を通して、ヨセフに語りかけてくださったのです。ここで、主の使いは二つの大切なことをヨセフに告げています。

(1)    聖霊によって。
ヨセフはマリヤが信仰深い人であることを知っており、他の男性と不適切な関係を持つとは考えられませんでした。しかし、現実として、マリヤが身ごもっているということも事実です。男性と関係を持つことなく、女性が子を宿すことは、この世の常識では考えられないことです。そこで、ヨセフはマリヤを信じつつも、マリヤを疑い離縁することを考えていたのです。そんなヨセフに主の使いは、聖霊によりマリヤが身ごもったことをつたえたのです。ヨセフはマリヤが聖霊によって、どのように身ごもったのか、その方法については理解できなかったでしょう。しかし、マリヤが不貞によって身ごもったのではなく、神様の計画によってマリヤが身ごもったことを信じたのです。

(2)    その名をイエスとつけなさい。
「イエス」とは、救いという意味です。イエス様が生まれる当時、ユダヤの国はローマ政府によって支配され、ユダヤの人々は、ローマ政府からユダヤの国を救い出す救い主(メシヤ)を待ち望んでいました。しかし、神様が私たちのために遣わされた救い主は、私たちの罪から救ってくださる救い主でした。ここに、ユダヤの人々の願いと神様の御心との間に大きな隔たりがあったのです。

22節23節のことばは、マタイの福音書の著者マタイのことばです。マタイは処女マリヤが身ごもって男の子を産むということを、ユダヤ人に説明するために、旧約聖書の預言のことばを用いました。マタイが用いた聖書の言葉は、800年も前に預言者イザヤが預言したことばでした。23節「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)マタイが強調していることは、処女が身ごもるということを、ただ、驚くべき出来事としてではなく、神様の計画であることを旧約聖書をとおして証明したことです。旧約聖書の裏付けがなければ、だれも、マリヤが処女で身ごもったことを、信じることができなかったでしょう。旧約聖書を神のことばと信じることによって、はじめて、イエス様の処女降誕を私たちは信じることができるのです。

インマヌエルという言葉には二つの意味があります。

(1)    神が人となられた。
ユダヤ人にとって神様は偉大なお方です。神はすべての創造主であり、支配者です。人間はその神によって創造された被造物です。神と人間との間には大きな隔たりがあり、ユダヤ人にとって、人が神となることは神を冒とくすることで、これは死罪にあたります。しかし、マタイはその神が人となられたと証言したのです。人が神になるのと神が人になるのは似た言葉ですが大きな違いがあります。人は大きな権威を持つことによって、神のように恐れられます。しかし、それは人が神のようにふるまうことで神になったわけではありません。しかし、神が人となるということはどういうことでしょうか。それは、私たち人間が虫けらになることと似ています。私たち人間は罪の中に住む者です。しかし、神は罪の全くないお方です。その神が、自ら罪の世界に生まれてくださったのです。人間の知恵では理解できないことです。

(2)    私たちの心の中に住まれる方。
イエス・キリストは馬小屋で生まれました。なぜ、神の子が馬小屋で生まれなければならなかったのでしょうか。ある牧師は、あの馬小屋は私たちの心の中を表していると説明しました。馬小屋は汚く臭い場所です。そんなところで生まれてくださったから、私たち罪人の心の中にも神様が住んでくださるという意味です。ユダヤ人は、神は聖いお方だから、この世に近づいてくださることはないと考えました。まして、罪人の心の中に神が住んでくださるなど考えることもできなかったでしょう。しかし、神は人として生まれ、十字架に付けられ殺されましたが、三日目に復活して天に昇って行かれました。また、イエス様はご自分の代わりに、聖霊を遣わすと約束して下しました。その聖霊は、私たちを神の宮として、永遠に私たちの心の中に住まわれると約束してくださったのです。

聖書の中に永遠のいのちという言葉があります。イエスを神の子と信じる者に与えられる新しいいのちのことです。しかし、この永遠のいのちとは、この地上で永遠に生きるいのちのことではありません。永遠なるイエス・キリストと結ばれて、イエス様と永遠に生きるいのちのことを永遠のいのちといいます。それゆえ、イエス・キリストを神の子と信じる者は、たとえ、この世でいのちを失っても、イエス様が共におられますから、天の御国でもイエス様と永遠に生き続けるのです。世の終わりが近づいています。また、私たちの命もいずれ終わりが来ます。その時のために、私たちはどのように準備すればよいでしょうか。天国は本当に存在します。そして、そこには、悲しみや苦しみ、病や痛みのない世界だと聖書に記されています。神はそのような素晴らしい世界を私たちのために備えてくださいました。イエス・キリストを神の子と信じるだけで、私たちはその世界に招かれるとイエス様は約束してくださいました。天国には私たちの住まいがたくさんあると聖書に書かれています。今、天国の門は開かれています。私たちの正しい行いではなく、イエス・キリストを神の子と信じる信仰によって入れる天国の門が開かれたのです。これこそがクリスマスの本当の恵みなのです。

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