律法の完成者イエス

「律法の完成者イエス」マタイの福音書5章17節~20節

私たちクリスチャンは、新約聖書と旧約聖書を合わせて、一つの神様のことば、「聖典」と信じています。イエス様が30歳で公に人々の前に現れ、神様について説教をされると、人々はイエス様の教えに驚いたとあります。また、当時の律法学者たちのようではなかったとも記されています。当時、ユダヤの国ではユダヤ教が確立され、多くの律法の学者が誕生し、旧約聖書について議論されていました。彼らは、旧約聖書の神様の戒めを守るために、自分たちでさらに戒めを作り、それをも守るように教えました。しかし、しだいに神様の戒めと人間が作った戒めが入り交じり、戒めが膨大な数に膨れ上がってしまったのです。イエス様の教えは、そのような誤った解釈を修正する教えでした。しかし、イエス様の説教を聞いた、律法学者たちは、自分たちの教えと全く違う。場合によっては、自分たちの教えとは全く反対の教えであったため、自分たちの教えは正しく、イエス・キリストの教えは律法の教えに反するとして、イエス様の教えを認めようとしませんでした。ある者は、悪霊の働きであるとして、イエス様の働きを悪意を持って見つめていたのです。

イエス様の教えは、決して旧約聖書の戒めを否定する教えではありませんでした。それゆえ、イエス様は群衆にこのように言われました。17節18節「わたしが来たのは律法や預言者(旧約聖書全体を指す言葉)を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就(完成)するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」イエス様の説教は、旧約聖書の戒めを変えて、新しい教えを教えたわけではありません。旧約聖書の教えそのものの教を教えただけです。しかし、律法学者たちの教がすでに、神様の教から離れ、人間の教えになっていたがために、イエス様の教との間に大きな違いが生じていたのです。

さらに、イエス様は群衆に言われました。20節「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」イエス様のことばは、一見、新約聖書のことばと違うように受け取れます。私たちの救いは、律法の行いによる救いではなく、神様を信じる信仰による救いであると教えられてきました。それなのに、「律法学者やパリサイ人の義にまさるものでなければ天の御国に入ることはできない」とは、どういうことでしょうか。イエス様は律法学者パリサイ人より正しい行いをしないと、天の御国に入ることができないといわれたのでしょうか。そうではありません。イエス様は、次の21節から、いくつかの例を挙げて、パリサイ人律法学者たちの間違った聖書の解釈を指摘し、どうするべきかを明確に人々に教えています。

1、「殺してはならない。」21節~26節

21節、昔の人に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。「殺してはならない」という戒めは、旧約聖書、出エジプト記に記された、十戒の中にある有名な戒めです。律法学者たちの、解釈は、文字通り「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」でした。しかし、イエス様の解釈はそうではありません。人を殺さなくても、兄弟に腹を立てる者。兄弟に「能なし」「ばか者」と言うものは、人を殺した者と同罪だと教えているのです。人を殺すということは特別なことで、普通の人は人を殺すことはありません。それゆえ、律法学者パリサイ人たちは、自分たちは戒めを完全に守っていると確信をしていたのです。しかし、イエス様が教えるように、殺人も兄弟に腹を立てる者、能なしと言う者、ばか者と言うものが同じ罪であるなら、誰が守ることができるでしょうか。律法学者パリサイ人たちは、神様の戒めを自分たちが守れる(人間が守れる)レベルでしか考えていませんでした。しかし、イエス様の教えはさらに、律法学者パリサイ人の教えをまさる教えでした。それゆえ、イエス様は、「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人にまさるものでなければ、天の御国に入ることはできないと言われたのです。

2、「姦淫してはならない。」27節~30節

「姦淫してはならない」という戒めも先ほどと同じ、モーセを通して与えられた十戒の中の有名な戒めです。律法学者パリサイ人たちは、この戒めを姦淫しなければ戒めを守っていると解釈したわけですが、イエス様はさらに、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」と言われました。実際に、姦淫の罪を犯さなくても、情欲を抱いて女性を見ることによって、すでに、心の中では姦淫の罪を犯しているということです。人は、人の心の中を見ることはできません。しかし、神様は私たちの心の中はご存知です。この戒めは、人が裁くのではなく、神様の御前で裁かれるわけですから、人間の基準ではなく、神様の基準で考えるなら、心に抱く情欲も姦淫の罪も同罪と言うことです。

であるならば、誰が神様の戒めを守ることができるでしょうか。誰も守ることができません。それゆえ、神の子イエス様による十字架の贖いなしには、誰も、罪のない者として神の前に立つことができないということです。では、神様は私たちが守ることのできない戒めをなぜ、私たちに与えられたのでしょうか。律法とは神が定めた救いの条件です。律法は私たちが、神様の基準に合わせて、正しい人になることができないこと。神様による救いが必要であることを教えるために与えられたものです。ところが、律法学者パリサイ人たちは、その神様の戒めを、自分たちが守れる(人間が守れる)戒めに変えてしまったのです。元々、ユダヤ人は自分たちは神様に選ばれたアブラハムのためであるから罪がないと教えられてきました。それゆえ、彼らは、自分たちが一生懸命、神様の戒めを守らなければならない。自分たちはアブラハムの子孫であるから、自分たちが努力して戒めを守ることによって、天の御国に入ることができると信じたのです。しかし、バプテスマのヨハネの説教もイエス様の最初のことばも、悔い改めなさい。天の御国が近づいたからでした。ユダヤ人である彼らが、まず、自分たちが罪人であることを認めることが、救いの第一歩だったのです。

私たちはどうでしょうか。人間について、「性善説」と「性悪説」の二つの考えがあります。「性善説」は、人間は生まれたときは罪がないが、成長するに従って世の悪を身に着けて悪い人間になるという考え方。「性悪説」は生まれた時から人は罪を持って生まれる。キリスト教的考えで、人はアダムとエバの子孫として、生まれる時から罪を持って生まれるという考えです。律法は私たちが罪人であることを教えるために与えられたものです。日本人はなかなか罪がわからない国民だと言われています。この世の常識で考えるなら正しい人が多い国民です。しかし、神様の基準ではどうでしょうか。天の御国に入るのは神様の基準に合格した者です。聖書はすべての人は罪を犯したと教えています。それゆえ、全ての人に、イエス様を信じる信仰による救いが必要となるのです。イエス・キリストはそのために人としてお生まれになられました。あなたは、どのようにして神様の前に立つでしょうか。