「謙遜を学んだエジプトの女奴隷ハガル」創世記16章3節~16節
人生には良い時もあれば、悪い時もあります。また、良いことは何時までも続かないし、悪いとこもいつまでも続くことはありません。悪い時は、悪い事ばかりを考え、生涯、悪いことが続くように考えてしまいます。しかし、実はそうではなく、長いトンネルにも出口があるように、苦しみもいつまでも続くわけではなく、出口(解決)があることを忘れてはなりません。また、良い時にはこれからもよい時が続くと考えて浮かれてしまいますが、気を付けないと落とし穴におちいり、思いもかけない災難に見舞われる時があります。
今日は、アブラハム夫妻に、子どもが生まれないために、アブラハムの妻に差し出された、エジプトの女奴隷ハガルから学びます。当時の社会状況から考えると、子どもを産めない女性は、神様の祝福を受けることができない女性、神様から呪われた女性と見られ、人々からさげすまれる立場にありました。しかし、アブラハムの妻サラは、アブラハムの正妻として、美しさと、女主人としての威厳を持った女性ではなかったでしょうか。そんな女性でも一つだけ、大きな負い目を抱えていました。それが、夫であるアブラハムに跡継ぎとしての子を産むことができないということでした。アブラハムとサラは神様から子孫が与えられるとの約束が与えられましたが、依然として子供は生まれず、サラも年を取り、女性として子を産むことができない年齢に達してしまいました。そこでサラは、アブラハムの妻として、アブラハムの家の将来のことを考え、自分の女奴隷ハガルを夫アブラハムに妻として差し出す決心をしたのです。当時は、一夫多妻の社会で、子が生れない場合、子孫を残すために複数の妻を持つことは普通のことでした。それゆえ、アブラハムも妻のサラからその話を持ち掛けられた時、特別反対をすることなく、若いハガルを妻として受け入れたのです。ハガルにしてみれば、無理矢理アブラハムの妻に差し出されてしまいましたが、当時の奴隷の立場からすれば、拒むこともできなかったでしょう。いやおうなく、ハガルはアブラハムの側妻にされてしまいました。しかし、ハガルが身ごもると大きく立場が変わりました。奴隷の身分から、アブラハムの跡継ぎの母の立場を手に入れることになったのです。人々は、後継ぎの母になるハガルをほめたたえ、彼女の地位を女奴隷の立場から、女主人の立場へと持ち上げました。ハガル自身も、女奴隷の立場から一夜にして女主人と同等の立場を得たわけですから、周りに対して、高慢な態度を取るようになりました。それに激怒したのが正妻のサラです。まさか、自分の女奴隷のハガルがそのような態度を取るなど思いもよらなかったのでしょう。サラは自分の立場を守るために、ハガルをいじめたとあります。ハガルは女主人サラのいじめに耐えられなくなり、身重のままアブラハムの家から逃げ出してしまいました。
アブラハムの家を身重の体で飛び出した哀れなハガルを神様は見ておられました。主の使いは荒野でハガルに声をかけました。8節「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」彼女は主の使いに答えました。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」主の使いは全ての事を知ったうえで、このように彼女に言われました。9節「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」さらに主の使いは神様のことばとして、生まれる子(イシュマエル)の将来についてハガルに伝えました。10節「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」11節「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエル(神は聞かれる)と名づけなさい。主があなたの苦しみを聞かれたからです。」12節「彼は野生のろばのような人になり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」ハガルは主の使いのことばに従い、アブラハムの家に戻り、ぶじに子どもを産みました。アブラハムは、主の使いがハガルに告げた名イシュマエルと言う名を生まれた子に付けました。
ハガルは女主人サラの元に戻り、身を低くして彼女に仕えました。イシュマエルはアブラハムの後継者として大事に育てられました。しかし、ここに二人にとって大きな転換点が訪れました。サラが身ごもり、男の子を産んだのです。アブラハムの家にとってこれは大きな喜びでした。アブラハムはその子にイサクと名を付けて、大事に育てました。この事をハガルとイシュマエルはどのように受け止めたのでしょうか。特に、イシュマエルにとってイサクが生まれることによって、自分の存在価値が無くなってしまいました。今までちやほやしていた取り巻きがいなくなり、アブラハムの後継者という地位も失ってしまいました。イサクの乳離れの日、盛大な宴会が催されました。その時、サラは自分の子イサクをからかっているイシュマエルの姿を見てしまいました。サラは、イサクの将来を心配して、夫のアブラハムに、ハガルとイサクを家から追い出すように訴えました。しかし、アブラハムにとってイシュマエルも自分の子です。悩んだのではないでしょうか。悩むアブラハムに神様はこのように言われました。21章12節13節「その少年とあなたのはしためのことで、なやんではならない。サラがあなたに言うことはみな、言う通り聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」
翌朝早く、ハガルとイシュマエルは、パンと水の入った皮袋を与えられ、アブラハムの家を出て行きました。しかし、神様はそんな哀れな二人を見捨てたりしませんでした。荒野で水が無くなり、生きる望みが無くなりかけたとき、神は少年の声を聞かれたとあります。主の使いが彼女の目を開かれたので、彼女が井戸を見つけ、二人は助けられました。彼は、成長し荒野に住み神様の約束の通り、一つの国民とされました。
カウンセリングの基本は、過去は変えることができないが、未来は自分の意思で変えることは出来る。また、人を変えることは出来ないが、自分を変えることは出来る、ということです。苦しみの時、私たちは、周りの人を批判し、あの人が変わればと願い、または、夫(妻)を変えようとします。しかし、それは、うまくいきません。人は人のことを変えることができないからです。しかし、自分で自分自身を変えることはできます。また、過去を変えることは出来ませんが、未来を選択しているのは自分自身です。不幸が多いと感じている人は、知らない間に不幸を自分で選択していることがあります。もちろん、不慮の事故や災害は避けることは出来ませんが、人間関係においては、自分を知り、相手を知ることによってトラブルを避けることができます。カウンセリングはそのことを本人に気付かせるのがその役割といえます。
ハガルの人生は、不幸と幸運が折り重なる、起伏の激しい人生でした。その中にあっても彼女は、神様に従い謙遜を身に着けました。そんな彼女を神様は捨てることなく、この親子を神様は見守り、助け、この親子から一つの国民を生み出してくださったのです。