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牧  師  の  伝  言  板

高田牧師の一言メッセージです。毎週追加されていきます。


  私とともに力を尽くして神に祈ってください ローマ15:30
Date: 2012-04-15 (Sun)
祈りについて次のように語られているのがありました。
「日頃、祈りを怠って、嘆きや泣き言ばかりもらしていると、間一髪の時、いざという時にも祈りの刀は抜けず、恨みつらみしか口に出せないことでしょう。ことごとに神さまに祈ること、時を問わずに祈ること、何時でも、いつでも祈ること‥祈ることは、神さまに近づく最上・簡便の道です。自分を神さまの子として意識する最善・有効の策です。祈ることは、一切のよきものがただ神さまから来ると銘記することであり、神さまが私を覚えていたもうことを確認することであり、私に最大の守り手がいたもうことを内外に宣明することなのです」
いつも祈りの手を挙げることができる、そのためには日々自分の霊性を高める思いが大切なのです。

  私に(パウロ)ならう者となってください。 Tコリント4:16
Date: 2012-04-08 (Sun)
上のみことばは、2012年度の目標聖句です。「パウロに倣う」信仰者を目指したいと思います。
「倣う」とは、「そっくりさん」になると言うことです。みなさんがパウロを生き写したようなキリスト者になることです。パウロと同じように、主から与えられた使命を行ない、信仰の子どもを生み、信仰の親となって信仰の子育てを行なうことです。このためには、私自身が子どもに伝えられる信仰、信仰者としての生き方を持つことが大切です。
またパウロがコリント教会の兄姉を見捨てずに導いたように、天国に導くまであきらめない心を持つことです。「私に倣う者に」出来ないことをパウロは勧めません。祈りとみことばを読む生活、そして主に従う生活はこの大きな目標を達成させてくれるのです。 

  主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。 詩編94:18
Date: 2010-11-07 (Sun)
苦しみや、困難の中にいる詩篇の作者が、今にも足がよろけて、倒れそうになっているとき、告白したのが上のみことばです。「あなたの恵みが私をささえています」と、困難の中で完全に倒れず、倒れ伏すその一歩、あるいは二歩手前、もう斜めがかった状態かも知れませんが、しかし、そこで持ちこたえられる。それは神さまの恵みによっている、と彼は告白しているのです。
私どもの今の状態が最高ならばすばらしい。しかし、最悪の時もあります。最悪の中で神さまの恵みを数え上げ、賛美をささげられる、そこに、救いを受けた、キリスト者への神さまの恵みがあるのです。苦しみを味わい、その苦しみを耐え、その中に神さまの恵みを見た人の姿が、続く詩編95編にあるのです。

  何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい Tコリント10:31
Date: 2010-10-10 (Sun)
教会をキリストの体たらしめるものの1つとして、キリストがみことばを通して語っていることを前回取り上げました。
さらに考えるなら、私はそこに集って、信仰を告白している、キリスト者もその一つに挙げられることが出来ると思います。教会をキリストの体たらしめているのは、それを築き、支え、手足となり、肢体となっている信仰を告白したキリスト者であり、その兄姉の結びつきなのです。それはこの世にある同じ趣味を一つにする同好会と違うのです。
教会はキリストまたは聖書に関心のある人々が集まっているのではなく、神さまに信仰告白した人々が、神の栄光を現すために、心を一つにして、互いに与えられている賜物を用い、神と人とに仕えるところなのです。

  夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます マルコ4:27
Date: 2010-09-26 (Sun)
私どもの多くの人の生活は、朝起きて一生懸命働いて、そして夜は寝る。というような朝から始まりそして夜終わる。というパターンが多いのではないでしょうか。
聖書を見ていますと、上のみことばのように、夜寝ることから始まり、朝起きて生活する、という生活リズムが作られています。聖書のリズムは、まず安らかに眠るーそれはまず、すべてを神さまにお委ねして一日を始めることを意味しているのです。その上で一生懸命働くのです。働きは神さまがすべて導いてくださる、ことを信じているのです。それに比べると朝から、という生き方には、自分の力を信じ、自分の力に頼って生きる姿勢がうかがえます。
夜パターンとは言いませんが、神さまに委ねて一日を始める祈りを持つようになりたいものです。

  あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ ルカ10:27
Date: 2010-09-19 (Sun)
近頃「自分を愛する」ということばが、「自己中心」として映っているような気がする。自分を愛している人は、何事でもまず自分のことから行い、人はどうでも、自分さえよければいい、というように、である。
「自分を愛する」ということは自分の周りにいる人々が喜んだり、幸せと思っていなければ、自分を愛してることにはならないのではないだろうか。なぜなら、私は一人で立っている訳ではなく、多くの人々、周囲の人々の土台の上に共に立っているのだから。この土台が、喜び、幸せを感じ取っているのなら、自分もその恵みの中にいて感謝をささげられる。
教会も同じだ、自分を本当に愛している人は、兄姉が励まされ、喜びを味わうために私が出来ること、それを捜し、行う人です。

  右にも左にもそれてはならない ヨシュア1:7
Date: 2010-09-12 (Sun)
「私は古びたとびらのように、ちょっとした風にも哀れな悲鳴をあげ、腐った床のように少しの重さにもきしみ出します。つくづく忍耐に欠けます。堪忍に欠けます。すぐ声を立て、人の注意を引いては、自分の苦難の押売りをします。そのために多くの隣人が心配するのを、当然のこととします。実にわがままです」とのことばがあります。
すぐ悲鳴を上げる忍耐のなさも問題ですが、だからと言って、人々が心から心配していても、なにも語ろうとしない事も問題です。前者には人を頼りにしすぎる、甘えた人生観が、後者は人を信頼しない生き方がある。
「ほどほど」ということばは右にも左にも極端ではなく中庸を保つと言う本来いいことばです。信仰者には良識ある中庸が求められているのです。

  信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい ヘブル12:2
Date: 2010-09-05 (Sun)
上のみことばは今月の暗唱聖句の一つです。
信仰者として生きるということは、イエスさまが私の救い主であることを信じることから始まります。そしてこのスタートを切ったあとは、上のみことばにあるよう、イエスさまから目を離さないで生きることです。
これには二つの思いが含まれていると思います。その一つは、神さまに思いをはせて歩み続ける生き方です。もう一つは、神さまの目をもって、この世に目を注ぐことです。それは、神さまの目から生活を見ていく生き方です。
この世にあるものが神さまによって創られたのであるなら、神さまはどのような思いで、ここにある一つ一つを創られたのだろうか?そのなかに神さまの計りがたい愛を見るー信仰に生きるとは、それを見極めることではないでしょうか。

  彼(キリスト)にあって歩みなさい コロサイ2:6
Date: 2010-08-29 (Sun)
8月も終わりを迎えるのに、「この暑さは何!」記録的な暑さに、悲鳴を上げているのは私だけでしょうか。
そのような中、夏休みも終わり、学校も始まりました。子どもたちはこの暑さの中、ダラダラと過ごしていた生活に終止符を打ち学校に行ったのです。
信仰生活もある時、ダラダラとした生活に終止符を打つことが必要です。それは、自分の心に居座っている古い人を、古い考え、古い体質・体制を放り出し、心の部屋の隅々まで神さまの光の前に開け放ち、御霊の風で満たしていくことです。
御霊で満たされた心は、神さまによって変えられた自分との出会いを体験させてくれます。さらに、主の御用のために用いられることの喜びを教えてくれます。古い人に終止符を打ちたいと思います。

  信仰は‥目に見えないものを確信させるものです ヘブル11:1
Date: 2010-08-22 (Sun)
「神さまを知ってから一輪の花に、その美しさのみか、はかないいのちの草をこのように装ってくださる神さまの慈愛を見出し、一羽の鳥も、これを日々養い、精いっぱい歌わせてくださるいつくしみを思って、神さまへの礼拝をささげる者になりました」
キリストによって救われるとは、目に見えるものの中に、目に見えないところに注がれている、神さまの愛を見ることが出来る人に変えられることです。そのことは物の中だけではなく、共に生きてくれる人の中に、その人がいかにすばらしい賜物を神さまから与えられているかを見出すことも出来る力を、与えられているということです。
見出すには努力が必要です。それと共に自らを低くすることも。見出す忍耐は神さまが与えてくださる恵みです。

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