高田牧師の一言メッセージです。毎週追加されていきます。
■ 舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです ヤコブ3:5 |
Date: 2010-08-15 (Sun) |
私たちは平和な日本に住みながら、平和な生活をしていない自分と出会うことがないでしょうか。職場、隣近所、兄弟、家庭―平和に過ごしたい一番身近なところで、争いがある。不合理な自分を見出すことは悲しいことです。
スザンナ・ウエスレ―の祈りに次のような祈りがあります。
「あなたは、私の心のいやしさをご存知です。無力で、無感動、心根は不従順、善に逆らい、悪に走る心。あなたは、わたしの激情が、どんなに奔放かをご存知です。恐れにもたじろがず、愛にひかれることもありません。ああ主よ、私が自分を、知ることができるようにして下さい。私のみじめさを示すよう。ああ主よ、与えてください。罪を悲しむ心、祈る心を」
私が、自分を知り、悔い改めるところから、すべての解決が始まるのではないでしょうか
■ この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です ローマ16:2 |
Date: 2010-08-08 (Sun) |
先週、「日々のみことば」でのデボーションではローマ書が終わりました。
最後の章の16章ではパウロが多くの人の名前を挙げて感謝と、挨拶をしています。そこにはパウロの人脈の広さを見せられます。がそれとともに、ここに名前が挙げられている一人一人のために、パウロがいかに祈っていたかを知らされるのです。毎日、兄姉のことを覚えて祈っているか?と神さまの問いかけの声が響いて来るようです。
パウロは自ら兄姉のために心を用いていますが、兄姉が神さまの栄光を現すことが出来るように、他の人々にも頭を下げているのです。福音のために、神の栄光のためになること、これがパウロにとって第一なのです。「神の栄光」が現われることを、まず行いたい。
■ 彼は(アンデレ)‥シモンを見つけて「私たちはメシヤに会った。」と言った ヨハネ1:41 |
Date: 2010-08-01 (Sun) |
キリスト教会の土台となったシモン・ペテロは最初アンデレに導かれてイエスさまのもとに来ました。ナタナエルはピリポの証しを聞いて主イエスさまに導かれました。
私どももだれかに導かれ、教会に集い、さらにはキリストの救いを受けたのではないでしょうか。それが証しであったり、だれかが配布したトラクトであったり、その違いはあったかもしれませんが。休みなく落ちる水滴は石に穴をあけます。それと同じように、神さまから与えられた救いの証しのことばは、繰り返し証しされるとき、恵みが力となって、その人の心を砕くのです。
絶えず、キリストを証しすることーそれは同じことを何度繰り返してもいいのですー聞く人にすばらしい恵みを実現させます。繰り返しの恵みはあります。
■ あの方は盛んになり私は衰えなければなりません ヨハネ3:30 |
Date: 2010-07-25 (Sun) |
キリスト者でない一人の方が、私は聖書を読んでいるけれども、キリスト者にはなれない。なぜかと言うと、キリスト者になったら、この私が死ななければならないからだと言うのです。おそらく、聖書を読みながらそう思ったのでしょう。そこまでやれないと思ったのです。
私はそうゆう言葉を聞くと、心の一方では、それは違います。と言いたい。信仰を持ったら、あなたが本当に生きられるのであって、自分が死ななければならない、殺されてなくなるなどと思うのは、とんでもない間違いでしょう?と言いたいのです。
しかし同時に、この方が感じている面も真実であって、私どもが真実に生かされるためには、自分が衰えることが、どうゆうことかということをを知っている必要があります。
■ 神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 ローマ8:39 |
Date: 2010-07-04 (Sun) |
今年も半年が過ぎました。今年の誓いをどれだけ果たすことが出来たでしょうか。
このようなことばがありました「悪魔があざ笑うように感じます。求めても得られなかったではないか、たたいても開かれなかったではないか、願ってもかなえられなかったではないか、祈っても答えられなかったではないか、お前は見捨てられたのだ、神の祝福は去ったのだと、聞こえてきます。けれども、主よ、神よ、それは、決してあなたが去られたからではありません。私の足りなさが原因しているのです。また、時が至っていないのです。あなたは私のかたえにあって、祝福をいっぱい抱えていらっしゃるのです。どうぞ今年の後半に期待させてください」
あと、半分残されています。足らないところを祈り求めましょう
■ 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください マタイ6:11 |
Date: 2010-06-20 (Sun) |
上のみことばは私たちが礼拝にてささげます主の祈りの一節です。
この祈りのことばは大変、具体的で「日ごとの糧を」と食事が与えられるよう祈ります。私どもの祈りのことばには、「祝福してください」「恵みをください」と求めることばが多いいと思います。しかしよく見ると、抽象的な祈りが多いいのではないでしょうか。
来週特別集会が行われます。「新しい人が集会に導かれるように」と私どもは祈ります。「新しい人」とは礼拝に参加したことのない人です。それは私が全く知らない、今回配るチラシで導かれて、来られた人でもあり、また礼拝に出席したことのない、私の知人「〜さん」でもあります。その人のためにいのる。そこに具体性が生まれてくるのです。共に具体的に祈りましょう。
■ イエスはろばの子に乗られた マタイ21:7 |
Date: 2010-06-13 (Sun) |
聖書にはろばのあご骨を用いて多くの敵を倒したサムソンや小さな石で巨人ゴリアテを倒したダビデ、また上の聖句にある、今だ荷物を背負って役立つことのなかった、ろばの子がイエスさまを乗せ、エルサレム入場という大役をはたした出来事が書かれています。
それらに共通しているのは人の目から見ると何ら役にも立たないと思われる小さなものが、大きな働きに用いられていることです。これらのことが起きるのは、用いて下さるのが人ではなく神さまだからです。
年を重ね経験を積み重ねていくと、つくづく自分の力のなさを知らされ、知人の優秀さを感じると言われます。しかし、用いて下さるのは神さまです。そのことを忘れず主へ信頼を置き、今週も歩みたいものです。
■ いったいこの方はどういう方なのだろう。 マタイ8:27 |
Date: 2010-06-06 (Sun) |
兄姉は神さまに「なぜ‥」と問うたことがありませんか。
神さまになぜ私を選んでくださったのですか。それは良いことも、悪い出来事にも、私どもが直面した時発する神への問いかけではないでしょうか。
「忍耐に富みたもう主よ。あなたはわざと遅れて、それも人の目には取り返しのつかないほどの大遅れを演じて、私を途方に暮れさせ、その上で、私の中に眠っている信仰を引き出されます。確かに、私は信仰を死蔵しているばかり“宝の持ち腐れ”であることを、いたく感じます。万事休すといったところに追いつめられて、初めて飛び上がるように、信仰をまさぐり、握りしめて、懸命にあなたの胸を打ちたたきます」との祈りのことばが、自分のことのように響かないでしょうか。
■ だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です Uコリント5:17 |
Date: 2010-05-30 (Sun) |
よく新興宗教のチラシに、『この宗教により、このように家庭円満になりました。』とか、『このように変わりました。』という記載があります。そして、教会のチラシにも、それと競っているのか、同じような文面を見ることもあります。
私はイエスさまを信じたことにより、その家庭が変わることも、病が癒やされることも、その人が大きく変わることもあると信じています。しかし、それは全部ではないと思っています。
私達は同じ体験をしなければ救われないのではないのです。聖霊なる神さまは、大きな変化もおこされますがそれ以上に、日々私どもに働きかけ、聖書を通し語りかけ、少しづつ私達を変えてくださるのです。その小さな変化を見ることが出来る信仰こそ、腰が据わった信仰と言えます。
■ 御翼の陰に私をかくまってください 詩編17:8 |
Date: 2010-05-23 (Sun) |
昨日は教会学校の子どもたち、また兄姉とバーベキュー大会をつくしのアスレチックで行きました。(この週報が出来ているのが金曜日なので、過去形で言うのもおかしいのですが。。。)しかし、炎天下の中、みんなでお肉等を焼いて食べるのだろうと思います。そのような中、少しの木陰でもあり、そこに腰を下ろせれば、何ともホッ!とした思いになるだろうと想像できます。
エレミヤ書を読んでいますと、鷲の翼におおわれると言う表現が何度か出てきます。これはもちろん、バビロンの翼におおわれ滅ぼされる町々の姿がそこにあります。それとは逆に、上にあげた詩編は神さまの翼におおわれ、平安を得ることを求めている詩人の思いがあります。
炎天下に生きていることが多い兄姉は、今どちらの木の下にいるのでしょうか。
■ 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました Uテモテ3:7 |
Date: 2010-05-16 (Sun) |
心理学者のユングが中年期を「人生の正午」と呼びました。ユングによりますと、正午には、それまで頭上を照らしていた太陽の位置が変わり、影の向きが逆になり始めるように、人生も正午を迎える頃から後半期が始まり、その時にはそれまで持っていた価値観や物の見方が変化し、心はより内面的な方に向けられ、自己現実に向けられるようになっていくというのです。
「人生の正午」をユングは40歳位と言いますが、人により幅があると思います。自分として40歳位迄はいろいろと手を付けて、それなりのものを作ったとしても、この時からは何か一つでも自己完成していくことを求め、歩み始める時期なのです。
信仰の戦いを走り終えたという満足感を人生の成熟期に味わいたいものです。
■ 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと‥ Uテモテ3:16 |
Date: 2010-05-09 (Sun) |
礼拝説教でルカの福音書の連続説教をさせていただいて、今年で約4年になります。ルカの福音書は24章で構成されているため、残りあと4章を切ったことになります。そのため、私としてはそろそろ、次はどこを取り上げて説教すればよいのかと、祈りつつ、導きを求め始めたところです。(しかし、そろそろと言っても、今年一杯はルカだと思っているのですが)
牧師として26歳の時からこのような形での連続説教をさせていただきましたので、旧約聖書は未だ多く説教していないところがあります。しかし、新約聖書は残すところ、ローマ書等数書となりました。
人生あと何年説教させていただけるかわかりませんが、出来るなら、新約聖書は全部終わらせたいと願っています。ですからバランスをとるため、伝道者には旧約からと‥!
■ それらをちりあくたと思っています。 ピリピ3:8 |
Date: 2010-04-18 (Sun) |
私がときどき引用いたします「きょうの祈り」のなかにこのような祈りのことばがあります。
購い主イエスさま。私はあなたにいのちをかけた時に、多くのものを捨てました。もっとも、それはあなたがお捨てになったものと比べたら、顔から火が出るほど恥ずかしいものでしたけれども。
しかし、捨てて顧みることなどすまいと思っていたはずなのに、いつしか、それを惜しむ気が起きて、捨てたものを数え、失ったものを残念がることを恥ずかしく思います。そこに信仰の呼吸の乱れが生じ、信仰の歩調の遅れが出てきます。
主よ、あなたの飼葉おけを、あなたの十字架を、あなたの墓を、私の念頭に置いてください。あなたが捨ててくださったものを見つめさせてください
■ 私は、あなたがたのことを思うごとに、私の神に感謝し ピリピ1:3 |
Date: 2010-04-11 (Sun) |
去年の楽天の野村監督の「ぼやき」がよくニュースに取り上げられていましたが、「では牧師先生は‥ぼやきは、ないのですか。」と問われますと、まずは上のパウロ先生と同じで、兄姉を思うたびに、兄姉の神さまへの働きに感謝をささげるものです。
しかし、ぼやきもあります。礼拝中ずっと、起きていられればなー。とか、礼拝には遅れないように、とか、もっと聖書を読んでほしいとか、自分で自分の限界を決めず、神さまにもう少し信頼し、神の働きに足を踏み込んでみたらとか‥‥。牧師にぼやきが出るのも考えもんだが、牧師にぼやきがなくなったら、兄姉の信仰もそこでストップしてしまうのかも知れない。
もっと神さまに近づいて欲しいと思うから、ぼやきながら兄姉の成長を祈っているのです。
■ あなたが足の裏で踏むところはことごとく‥あなたがたに与えている ヨシュア1:3 |
Date: 2010-04-04 (Sun) |
主イエスさまが死からいのちによみがえられた、この復活の日から新年度が始まります。私どもも新しいいのちの躍動を主から受け、この一年「神さまの約束を得るためにー新しい自分に出会う」それも日々出会いたいと思います。
私はこの一年をかけ、コロサイ書を「一章」ではなく「一書」暗唱をしたいと思っています。年を重ね憶えることが、少しづつ大変になっています。少し無理?と思えることに挑戦することを通し、神さまのみことばを少しでも噛みしめ、その中に流れている神さまの思いに触れ、自分が神さまの前で変えられなければと思うのです。私ども一人一人が神さまの御前で変えられるとき、教会は神さまの恵みと祝福で満たされるのです。
■ 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを ローマ8:28 |
Date: 2010-03-07 (Sun) |
「今日の祈り」の3月4日のところに、このような祈りがあった「救い主よ。私はすぐ自己中心となって、自己満足でふくれあがるかと思えば、たちまち自己嫌悪に落ち込んで、ほぞをかむことをくり返します。自分の何たるかをわきまえずに、世界を自分のまわりに振り回そうとするから、空中分解してしまうのです。けれども主よ。世界は、あなた中心に回っているのです。ですから、また、私があなたと1つになれば、世界は私の周りを回ることになるのです。どうか、わが身知らずで転落した明けの子の明星(イザヤ14:12)のようにならず、むしろ自分の弱さこそ誇って、弱さの中の強さという極意を知った使徒のように、あらせてくださいますよう」
自分の思いで人も、物事も動かしてしまいがちな私どもへの忠告の祈りです。
■ 私たちは・・・お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう ローマ14:19 |
Date: 2010-02-28 (Sun) |
教会では今週と来聖日、教会総会が行われます。教会の2010年度の目標から始まり、行事計画、人事、予算等を話します。
教会総会の目的は、1年を通して神様が私どもの教会をどのように用いてくださるのか、また私どもがその神さまの思いにどのように答えて生きていくのかを共に祈りつつ、また共に智恵を出し合っていく時間です。
話し合いの中で大切なのは、教会が第一に神さまの栄光を現すことを求めることですし、兄姉が心を1つにして、色々と意見を出し合い、否定の上に立つのではなく、教会を建て上げる努力の上に立って話が築かれるように祈り総会に臨むことです。
兄姉の信仰と、信仰姿勢が教会を建て上げることも忘れたくはありません。
■ ただ、小犬でも食卓から落ちるパンくずはいただきます マタイ15:27 |
Date: 2010-02-21 (Sun) |
先週の週報は、ギリギリで礼拝に間に合い兄姉に渡すことが出来ました。前日の土曜日パソコンの打ち込みはスムーズに終わったのですが、いざ印刷になりますとコピー機に紙が入っていかず、何度行っても紙をはじいてしまいエラーの連続でした。
『1日空ければコピー機も機嫌を直してくれるか!』と淡い思いを持ち、次の朝、再度コピーをしてみたものの、結果はあえなくエラーの連続でした。
原因は、紙が入っていく所の、それも奥に飴が落ちていたためでした。飴をやっとの思いで取り出したら、何のことはないスムーズに印刷されたのです。
教会も信仰者もこれと同じことが起きることがあります。スムーズに流れないで、自分も周囲もイライラさせるエラーが出る。先週の伝言板に書いた「迷い」も同じです。これらは神さまの問題ではなく、私の不信仰という不具合が起こすことがあるのです。
■ ところが風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫びだし、『主よ助けてください』と言った マタイ14:30 |
Date: 2010-02-14 (Sun) |
私どもには「迷い」が起こることがあります。祈りつつ歩みだしたにもかかわらず、歩んでいる内に、その職場なりの環境や状況を知り、『私はここにいていいのだろうか。』とか、『ここに来たことは間違ったのではないだろうか』等、それは職場(仕事)だけでなく、日常生活にも当てはまることではないでしょうか。
ややもするとこの人と結婚したことが・・・キリスト者にはあまり見られないことですが、そのようなことにも迷いは起きることもあります。
ペテロのこの時を見ると、湖を歩いてイエス様の所へ行きたいと願ったのは彼自身でしたが、イエスさまも「来なさい」とその歩みを認めてくださったのです。神様の御心として、1歩、2歩とペテロは歩み始めたわけです。ここでの迷いは、神の御心かどうかの迷いではなく、信仰の弱さから来たものです。
■ あなたがたは自分自身と群の全体とに気を配りなさい 使徒20:28 |
Date: 2010-02-07 (Sun) |
教会についてこのようなコメントがあります。「教会の主権は神様の御手にある。神様が多くゆだねられると大きな教会となり、少なくゆだねられれば小さな教会となる。多かれ少なかれすべて、主のための尊い働きであり、主がゆだねてくだだった羊の群があるということ自体が大きな恵みなのである。神さまは多くゆだねても羊を飢え死にさせない人を探され、少なくゆだねても感謝しながら忠実に羊を養育する誠実な人を探される」
港北聖書教会は、今小さな教会ですが、このコメントにあるように神様が恵みを注いでくださり、羊の群をゆだねてくださっている教会なのです。ことばを変えれば、この教会を神様は、神の器として用いて下さっておられると言うことです。
羊が飢え死にするのではなく、豊かに成長する教会となりたい。
■ イエスは・・町々が悔い改めなかったので、責め始められた マタイ11:20 |
Date: 2010-01-31 (Sun) |
今年度の31の暗唱成句にはヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された・・・」とか、Tヨハネでは「神は愛です」とか神様の愛について言及しているみことばをいくつか覚えています。
それらのみことばが語っている通り、神さまの私どもに対する愛は、はかり知ることができないほど深く、広いものであることを、みことばを覚えれば覚えるほど痛感させられます。
しかし、私どもは神さまの愛と共に、神さまの「きびしさ」も身を持って知っておくことが大切だと思います。神さまが語っているメッセージに耳を傾けない、その命令を理解していても聞き従うことをしない。このような罪深い私どもに対しては、厳しく、責められるお方が神さまなのです。
愛だけに目を向けるのではなく、神様の厳しさに目を向け、自らの身を引き締めたいものです。
■ たたきなさい。そうすれば開かれます マタイ7:7 |
Date: 2010-01-17 (Sun) |
今朝の礼拝では「失望せず祈れ」とのテーマで説教がされましたが、この祈りについて1人の先生がこのようなことを語っています。「教会におけるいのりの集いは自分の務めではないと、はじめからかっこに入れて括り出してしまっている方があるとすれば、そこで少し考えを変えていただきたい。祈りの集いに、困難を乗り越えて集まり、信仰の仲間が用意いたしました言葉に耳を傾け、もし自分が祈りの言葉を語ることが難しければ黙っていて、人の祈りに心を合わせてアーメンと言うだけでよいのです。祈ると言うことは体験してみなければ分かりません。そこでなお大切なのは皆で祈ると言うことです。1人では祈れない。皆で一緒に集まって、その言葉にアーメンと言う体験が私どもを支えます。」
祈祷会は、教会を支える大切な集まりなのです。
■ 彼らはすぐに網を捨てて従った マタイ4:20 |
Date: 2010-01-10 (Sun) |
先週の牧師の伝言板にも書きましたが「約束を得るために - 新しい自分に出会う」と題して、新年礼拝の説教をさせていただきました。
私どもは新しい自分に出会うために何を変えるべきでしょうか。上のみことばで、主に従ったペテロたち漁師は、すぐに自分の生活を支えていた - 心の拠り所である網を捨てたのです。その時、彼らは新しい自分に出会ったのです。主をまず選び取ることによって。
私どもは新しい自分に出会うために、今年どのような目標を立てるのでしょうか。決して大きくなくてもいいです。主イエス様を選び取るために、自分が今すべきと考えていることを1つでも心に決め、この一年間実行して欲しいと思います。
教会が新しい教会と出会うのは、だれか他の人によるのではなく、「私」から始まるからです。
■ わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って・・・ ヨシュア1:2 |
Date: 2010-01-03 (Sun) |
新年礼拝では、ヨシュア記1:1〜4のところから「約束を得るために - 新しい自分に出会う」との大変長い説教題をつけさせて頂きました。
昨年、神様は私どもに多くの恵みをくださいました。神様の恵みを感謝しながら数えていきますと、長年祈り続けています40名での礼拝、20名の共に教会を建て上げてくれる新しい方々と言う祈りは1歩2歩と祈りの答えに足を踏み入れています。しかし、まだ完全に頂いていないことにも気付きます。
「今のままでは、今のまま」であり、神への大きな願い求めを得ることは出来ないのではないでしょうか。これは、今までと違う自分に変身すると言うことではありません。神様に近づくためにこうしなければいけないと分かっていることを、勇気を持って行う新しい自分が今求められているのです。
■ あなたは・・行って所有せよ。と言われた地に、彼らを導きいれました ネヘミヤ9:23 |
Date: 2009-12-13 (Sun) |
上のみことばーネヘミヤの説教ーは神様が先祖達にどのような恵みの御手を伸ばしてくださったか、そのことをもう一度思い起こし、神様と向かい合っているところです。
一年の最後の月である12月もあと半月、新しい年をもうすぐに迎えようとしています。私どもも過ぎ去った一年を振り返り、神様が私をどのように導き、恵みを下さったか、思い起こすことも必要ではないでしょうか。大きな出来事だけでなく、日常の生活の中で起きた、小さなことと思える中にも目を留め、神の恵みを覚えていく。私はどれだけ多く、恵みを数えることが出来るか、それは日々の生活の中でどれだけ神様の近くにいたのかが問われていることでもあります。
小さな出来事の中に神の御手を見出せる人は、ヤコブ4:8『神に近づきなさい。そうすれば、神はあなた方に近づいてくださいます。』を体験している人です。
■ しかし、このことについては、イスラエルに、今なお望みがあります エズラ10:2 |
Date: 2009-12-06 (Sun) |
私事ですが、先週行われました白内障の手術も無事に守られ、退院できました。左目、そして右目と2回にわたる手術でした。しかし、手術をしている時、またその1週間、兄姉の祈りに支えられていることを実感させられました。お祈りありがとうございました。
上のみことばは、入院している時、朝のデボーションで読んだみことばです。神様に罪を犯している民に「しかし・・なお望みが」あると言われたのです。その望みを繋ぐものは、1つには悔い改めですが、もう1つには「律法に従うこと」、つまり神のみことばに従うことであると言うのです。望み・希望は、心の持ちようによって生まれ出るのではなく、「みことばに従うこと」から生まれてくるのです。
日々色々な問題を抱え込む私たちですが、みことばを読み、従うとき希望を持って生きられるのです。
■ その聖書が、わたしについて証言しているのです。 ヨハネ5:39 |
Date: 2009-11-01 (Sun) |
私は兄弟が神様に近づくように導く牧者として、よく「聖書を読みなさい」と言います。礼拝や祈祷会等、教会の集会を守ることは、その人の霊的成長にとって欠かすことができないものです。礼拝だけでなく、祈祷会に出ることは、キリスト者をさらに成長させます。さらに、それら集会と共に、日々聖書を読むことは、キリスト者の成長の土台を築くことになります。
また、毎日聖書を読んでいるキリスト者とそうでない人との違いは、1年毎日聖書を読んだ人は、読まないで10年過ごした人以上の霊的成長を遂げるくらい違ってきます。これが2年毎日読めば、その成長は全く違ってきます。
今聖書を「読む」と書きましたが、私共は正確には、聖書に『聞く』のです。聖書を読むことは文字を追うことではなく、そのみことばから、神の語りかけを聞き取ることだからです。
■ わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる 創世記9:13 |
Date: 2009-09-06 (Sun) |
何とも年のせいでしょうか、一月が大変早く過ぎ去っていきます。8月も終わり、9月、今週も大雨と嵐を背負って日本に来そうな台風が多く来る月です。台風のあの雨と風の音が聞こえてくると、家の中で身を縮め、静かにしてしまいます。
ノアの洪水のとき、40日40夜、大降雨と大水が起こりました。箱舟の中にいて助けられたノアでしたが、空は毎日止まることのない雨の中で、例え雨が止まったとしても、もはや二度と青空が戻らず、木々の緑も見ることが出来ないのではと、思ったのではないでしょうか。
しかし神さまは、空に七色の虹をかけ、青々とした空をノアに与えたのです。一時、一切の希望も途絶え、先が見えないような雲が広がっていても、ノアを通し、その雲の後ろには虹がかけられていることを神さまは私共に教えて下さっているのです
■ あなたは私を探り、私を知っておられます 詩篇139:1 |
Date: 2009-08-30 (Sun) |
このような祈りがあります「いと高きにまします神さま、あなたの御前で、かくれんぼはできません。あなたの御前に目隠しを立てることはできません。それなのに、罪を隠し、咎を丸め込もうとする私の根性は、なんと愚かで卑しいことでしょう。しかし、そんなことを、あのダビデほどの人もしてしまいました。いかに賢い人も、ふとすると、お話しにならない児戯に等しいようなことを演じてしまう例です。ましてや、私は、そのようなことのなんとも多いもので、顔をあげることもできないくらいです。くれぐれも、人目をごまかさす、その場かぎりの、つじつま合わせや、あざむきを演じて、肝心のあなたの審判の御目に、さらされることのないよう、主をいつも目の前に置いて歩ませてください」
このような悔い改めと、新しい決意の祈りを夏の終わりにしておきたい。
■ 民に働く気があったからである ネヘミヤ4:6 |
Date: 2009-07-19 (Sun) |
ネヘミヤ記は捕囚から帰ってきた民が、ネヘミヤの指導のもとにエルサレムの城壁を再建することが特に書かれています。
ネヘミヤが民と共に城壁の再建に取り掛かると、今までは何も言わなかった周囲の外国人が急に敵対心を起こし、罵り、脅し、嫌がらせ、最終的には武力で再建を止めさせようとしたのです。神様の働きとして始められた再建工事ですから、神様が大きな力を持って敵も起こされず、問題も無く修復させてくれればと思うのですが、そうではなく、神様は敵対する者を起こし民に困難を与えるのです。民がこのことを乗り越え城壁を完成させることが出来たのは、神様への信頼と共に、彼らの働く気、城壁再建への気持ちでした。
教会もいつも困難に出会うのです。教会が立つか、倒れるかを決めるのは「私」の教会への気持ちなのです。