自分の内にある罪を知る

公開済み 9月 14, 2014 by 管理人 in アドナイ・エレ

〜私は正直でまじめな子供!?〜

私の親は比較的優しい両親で、私たちを叩いたり、暴力をふるったりすることはなかったのですが、躾に関しては比較的厳格な家庭で育てられたと思っています。それで、自分では正直でまじめな子供だと思って幼少期を過ごして来ました。

私が小学5年生の時、近所の下級生の子供たちを学校に連れて行ってみんなで学校の溝の掃除をしました。随分きれいになったころ、一人の子が私に「僕たちこんな良いことをして、先生に褒められるかもね。」と言いました。するとすぐ上の窓がガラガラと開いて、先生が顔を出して「君たち、偉いね。褒めてあげるよ。」と言われました。

私はその何倍も悪いことをしているのに、この出来事だけは未だに鮮明に覚えていて、自分は昔から良い子だったんだなと思ったりしていました。

しかし、聖書を読むようになって自分が如何に自己中心的な考え方をする醜い、汚い、弱い存在なのかが徐々に分かる様になってきました。

私をはじめ多くの人が、他人の罪には敏感でその不正を正したくなる一方で、自分の罪に対しては、これぐらいのことは誰でもやっている。私だけ特に悪いわけではないと、非常に寛容であることを感じるようになりました。

イエス様は弟子たちに言われました。

あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。ルカ6:41~42

私たちは他人の小さな過ちを、さも親切そうに指摘し、正してあげようとします。それに対して、イエス様はあなたが他の人の罪を正してあげるのは、あなたの内にあるもっと大きな罪を処理してからにしなさいと言われたのです。

だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。ガラテヤ4:3~4

聖書は「義人はいない、一人もいない。すべての人が神の前に罪を犯している。」と言っています。こう言われてもなかなかこれは理解できるものではありません。それは、私たちの罪の基準が、人間が共同生活していく上で、最低限これは守らなければいけないということを基準とした人間によって作られた法律に基づいているからです。

しかし、私たちを罪に定めるのは、人ではなく神なのです。ですから、神の律法に照らして見ないと上のみ言葉の真意はなかなか分かり得ないことだと思います。

私は、自分の内にある諸々の罪を知ったことによって初めて、神の存在が分かり、神による罪の赦しの事実を知り、神の救いの恵みに与かることができました。

神の御子イエス様は私たちの罪を身代わりとなって清算し、私たちを罪から解放してくださるために、この世に来られたのです。私たちが、その神の恵みを知るときに、神によって注がれる愛を体験し、溢れる喜びの人生を歩めるように変えられるのです。

私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。・・・・私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。・・ローマ7:14~15,24~25a


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