【礼拝メッセージ】一筋の心をお与えください

「主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』」(マタイ13:29-30)

この「毒麦」のたとえは、マタイによる福音書だけに記されています。イエスさまはこのたとえを、次のように話 し出されました。《天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔 いた》。この新共同訳では、「天 の国」がいったい何にたとえられているのか、すこしわかりにくいですね。しかし口語訳には《天国は、良い種を 自分の畑にまいておいた人のようなものである》とあり、岩波訳では《天の国は畑に良い種をまく人にたとえられ る》となっています。明らかに、「天の国」=「良い種を蒔く人」なのです。つまり、「天の国」はイエスさまご自身で あることがわかります。

本日の「毒麦」のたとえの御言葉で、《人々が眠っている間に》、《毒麦を蒔いた敵は悪魔》だと、イエスさまは 話されます。先週の御言葉のように、私たちが知らないうちに《艱難や迫害》、そして《世の思い煩いや富の誘 惑》が、絶えずおそってくるという現実があります。そして、悪魔(サタン)のはたらきは巧妙です。聖書に書かれ ているように、エデンの園でも、荒れ野の誘惑でも、御言葉を巧みに曲解して語りかけました。ルターも、「神さま が教会をお建てになられた所に、悪魔は隣のドアにチャペルを建てた」と語っています(1528年の説教)。しか しながらイエスさまは、《あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝ってい る》と宣言していてくださいます(ヨハネ16:33)。初代教会以来、迫害や艱難、試練のなかで、この「毒麦」のた とえは、多くの信仰者にとって、まことに慰めと励ましでした。それはいったい、なにゆえでしょうか。

イエスさまによって招かれ、恵みによって一方的に罪赦された者ですから、私たちは「麦」だといえます。しかし ながら、自分が「毒麦」ではないと、決して言うことはできません。自分は正しくて、他者を「毒麦」と裁くことも許さ れません。「裁き」は、神さまがなさることだからです。私たちは、神さまに従わず、日々罪を犯してしまう弱い存 在ですから、「毒麦」であるともいえます。ですから、私たちは「麦」であり、また「毒麦」と言えるでしょう。世に生き ている限り「義人にして、同時に罪人」だからです。

この「毒麦」のたとえのなかで、イエスさまご自身が、《『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれな い。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』》と宣言してくださっています。ルカによる福音書13章 の「実のならないいちじくの木」のたとえも同じです。イエスさまは、《木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません》と待っていてくださいます。主なる神さまは、じっと忍耐して待って いてくださるのです。

ですから、私たちには、「毒麦が麦に変えられる日が来る」という「希望」が与えられています。この神さまのご 忍耐に示されている主の愛を、恵みを想う、ただ《一筋の心》(詩86:11)を与えていただきたいのです。イエスさ まは、せわしく立ち働いているマルタに言われました。《しかし、必要なことはただ一つである。マリアは良い方を 選んだ。それを取り上げてはならない》(ルカ10:42)。イエスさまのもとにたたずみ、主の御言葉を聴き続けさ せていただきたいのです。そして、「毒麦」であることをわきまえつつ、すべてを主に委ねながら、主と共に「終わ りの日」を待ち望ませていただきたいのです。(乾和雄)