あなたは誰を待っているのか

 イザヤ 35章1~10   ヤコブ 5章7~10  マタイ 11章 2節~11節           

 私どもは今、共に、主イエスの言葉を聞きました。

 わたしにつまずかない人は、幸いである

 主イエスはおっしゃる。「幸い」。〈おめでとう〉という言葉です。〈祝福されている〉という言葉です。ああよかった、と――。今日、足がおぼつかないでここにやって来られた方も、おられることでしょう。わたくし自身も、神学生であった20代前半の頃は、もっとスタスタと歩くことができましたが、今はちょっとした段差やくぼみに足をひっかけてしまいそうになる。坂のきついところなどでは補助杖を使ったりもします。

 けれども今日、わたしたちは、主イエスその御方に、つまずかないでやって来ることができた。イエスさまの前に集うことが、礼拝に来ることができたのです。もちろん、願いながら祈りながらこの場に来ることは叶わずとも、それぞれの場で祈り主を仰いでいる信仰の同志を含めて――おめでとう、あなたは幸せだ、幸いだ…と、主イエスが、私たちを迎え、私たちの中に小さな信仰を見つけてくださる。あの、山上の説教において、主イエスは弟子たちに向け、そして私たちに向けて言ってくださいました。

 こころが貧しいかもしれない。自分が、自分一人で満足はできないかもしれない。いつでも神がいなければならず、神の助けがなければ何もできないかもしれない。しかし、その貧しさは幸いだ。

 あなたがたは、悲しみを多く知るだろう。自らの人生の中に。あるいは、この世界の中に悲しみを感じるこころがますます研ぎ澄まされるだろう。しかし、あなたがたは幸いだ…

 柔和な人々――。(字義上の意味では)時に人びとに踏みつけられる、暴力に対して暴力を用いないと決心したあなたがた、こころが踏みつけられることもあるだろう。けれども、あなたがたは幸いだ…

 マタイ第5章の3節から11節まで「幸い」という言葉を数えていくと、9つあるのです。この福音書を書いたマタイは、かなり几帳面な人、整理好きで、物事を厳密にきちんと書く人でした。でも、いわゆる完全数と呼ばれる3とか7とか12とは書かない。――どうして9つで止めてしまったのだろうか。そして、ある聖書神学者は言うのです。この、今日の第11章6節まで取っておいたんだ…

 9の次は10、そうです。主イエスはここで、あの十戒の十を、最後の幸いを、締めくくりとして語ってくださっている。わたしにつまずかない人は幸いである 主イエスはおっしゃるのです。おめでとう、わたしにつまずかなくてよかった。わたしのことがほんとうによくわかってよかった。わたし以外の他の人のところに行こうなどと思わなくてよかった…おめでとう…

 間もなく祝うクリスマスは、私たちが互いに、〈おめでとう〉と告げ合うとき、そして教会は、みんなで〈おめでとう〉と告げ合う場です。辛いこともあります。苦しいことや、悲しいこともあります。主イエスがおっしゃったように、こころ貧しくなり、悲しみ、柔和(踏みつけられるよう)な日々を送るということもあります。それでもなお、主イエスは、私どものこころの戸口に立ってくださって、時には、ユーモアをもって笑わせてくださって、“おめでとう…”と言ってくださる。あなたが、生きていることが嬉しいということです あなたは、わたしの愛の弟だ…愛する妹だということです。ああ…教会に来てくれておめでとう…。よかった そして、私たちは、お互いにそれを告げ合うのです。おめでとう… 主 イエスが来てくださった――。

 今日、登場する洗礼者ヨハネ――かれは今牢獄に居ます。自分はもはやここを出ることは難しいと、死の予感もあったのかもしれない。だからどうしても、主イエスのもとに弟子を遣わして聴き出したいことがあった(第11章3節)。言ってみれば、洗礼者ヨハネは主イエスにつまずきそうになった、不安になったのです。この御方をほんとうに信じてよいのか――そのことに疑念を持ったのです。

 福音書記者マタイは、ここで「(ヨハネは)キリストのなさったことを聞いた」(2節)と、丁寧に記しています(「イエスのなさったことを聞いた」ではなく)。ある人は問います。マタイはわざわざ、「キリスト」とここで断り書きを書いた。どうしてだろうか。それは、救い主として、主イエスが何をなさったかを聞いたのだ、だから尚更ヨハネは不安になっただろう、と。――何故か。自分が期待していたキリストと、実際に主イエスが歩んでおられる姿とが食い違うのです。

 ヨハネ自身がヨルダン川沿いの荒れ野で人びとに告げたような決定的な裁き(第3章10~12節)を主イエスはなさらず、ただただ、幸いである… と繰り返し、語りかけるばかり。そうなのです この御方は、どんなときも、まず祝福から始めてくださる

 洗礼者ヨハネは断食をし続けた人です。厳しく、禁欲的に、この世の有様を歎き悲しみ続けた人です。荒ぶり、大声を上げて、罪を告発し続けた人です。だから、あのヘロデに対しても、皆が権力を恐れて尻込みしていても黙ってない。お前は悪いことをした、弟の妻を寝取ったろう、それは律法違反だ(第14章3~4節)と、ヨハネはいつも戦ったのです。けれど、主イエスは違うのです。主イエスは断食をなさいませんでした。弟子たちにも命じず、飲み食いばかりしているのです。決定的な時を除いては、厳しいことをあまりおっしゃいません。むしろ、喜びにあふれた方でした。裁きのみをお告げになったのではない。

 これは、イライラするでしょう。ヨハネは真面目だったのです。どうも、私が聞くこのイエスのなさり方は、ぬるく甘いのではないか。そんなことでほんとうにいいのだろうか――。殊に、ヨハネは、この後まことに残酷な死を味わうことになるのです。あどけない少女の余興によって首をはねられる。本当にそのような死に方をすることが、正しいことなのだろうか。ヨハネだって懸命に祈ったに違いない。出来ることならば、残酷な死から逃れたいと けれども、その祈りが一向に叶えられないのです。その時に、本当にこの主イエスに頼っていてよいのか――。そのように尋ね、そして、揺さぶられ、主イエスに躓きそうになるのです。

 けれども、愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん 私たちは主イエスに躓かなかったのです。なぜか。それは私たちの方が、洗礼者ヨハネよりも、いいえ、エルサレムの人びとよりも、ずっと主イエスのことをよく知っているからです。主イエスは、死をそのままに放っておかれたのではない。御自分も死んでくださったのです。一つ、またひとつの、様々な奇跡を行い続けることを、主イエスは目的になさらなかった。むしろ、“ああ…自分の祈りが叶えられた”と喜びながら、その喜ぶ者の蔭で、じっと身を潜めている者と共に居てくださる。我らの罪を負ってくださった。そして、時に、我らの全く期待も希望もしていなかった仕方で、私たちを救い続けてくださる。間もなく、クリスマスを迎えます。主イエスは、私どものために、家畜小屋―-最も孤独な場所で生まれてくださいました。我らが味わうよりも、深い苦しみを味わってくださった。十字架につけて殺されました。葬られた――我らよりも先に。しかし、甦られたのです。私たちの信仰は、私たちの、揺れ動き、風になびく葦の如き信仰に立つんじゃない。主イエスの言葉に立つのです。

 おめでとう、今日も、つまずかないでここまで歩いて来た者たちよ――。