ミカ 第6章1~8節 Ⅰコリント 第1章18~31節 マタイ 第5章1節~12節
福音書記者マタイが伝える〈山上の説教〉。日課はその一部ですが、聖書の中でも、まことに多くのひとたちのこころを惹きつけてきた、素通りすることのできない力をもったひとつであると思います。
ここで、主イエスの言葉を聴いていた、「群衆」(1節)とは、第4章24節、25節の最後に記されていた人びとです。彼らが主イエスに従ったのは、ひじょうに単純な動機で、悩みがあったからです。自分自身が、あるいは自分の愛する者が、悩んでいたからです。“イエス様、何とかしてください――”。悩むままにその悩みを主のところに持っていった。それはもうただ闇雲について行った、というだけかもしれません。
主イエスの言葉が集中的に記されている第5章から第7章と、そのみ業について語られる第8章と第9章の2つの部分は深い関係にあるのですが、その第9章の終わりのところに、改めて主イエスのみ業を総括するようにして、先週の日課であった第4章の23節と、ほとんど同じことを、こう繰り返すのです。
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた(第9章35節)。要するに主イエスのなさったことというのはこういうことであったのだ、と。「会堂で教え、福音を告げ、病気を癒された」。そして第9章ではその主イエスのみ業の背後にある想い、主の想いを、このような印象深い言葉で、記しています(36節)。
また、群衆が、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
主イエスについてきた群衆というのは、何も分かっていなかったかもしれない。ただ自分の悩みを何とかしてほしいという、少しキツイ言い方をすれば、御利益主義丸出しの信仰でしかなかったかもしれない。それを、この群衆というのはほんとうにどうしようもない人たちだ、と切って捨てることができるのか。聖書はしかしそこで、この群衆の姿を、軽蔑したり、切り捨てたりするのではなく、ただその群衆は、“飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのだ”と申します。この第4章の最後のところにも、この主イエスの深い憐れみが溢れていたのだと、聴き取りたいと思います。そのような主イエスの想いが溢れ出て、そこに生まれてきた最初の言葉が、「こころの貧しいひとよ、あなたは幸せだ。幸せな人というのは、あなたのことなのだ…! 」。飼い主がいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆のこころをよぅくご覧になりながら――こころの貧しいひとよ――幸せな人というのは、あなたのことなのだ…!
この群衆に共通していたのは、要するに、“幸せになりたい。この不幸を何とかしてほしい――”。これは人間としての当然の願い、根源的な願いといってよいと思います。そのようなところでしかし主イエスは、“こうすれば幸せになれますよ”という教えを述べられたのではなく、ただ単純に、“あなたは心が貧しいね。その、あなたが幸せなのだ…!” と、事実を告げておられる。
昔から人間は幸いを問い続けてきた、と言ってよいと思います。“幸いになりたい。どうしたら幸せになれるのか”と。そしてある意味では、わたしのような牧師という人間もまた、人びとの幸せに仕える立場にあると思っているので、その牧師本人が無責任であってはいけない、と考えているのですが――つまりわたしが聖書を片手に、“あなたがたは幸せなのです。イエス様に祝福されているのです”というような説教をしながら、“それにしちゃあ、神﨑牧師は別にあまり幸せそうじゃないね…”ということになったら、とても困るということです。そうだ、幸いを語る人間は、その言葉に、責任をもたなければならない!
もう少し問いを深めるならば、 “心の貧しいひとが幸いだ、悲しむ人は幸いだ”という説教をしたとき、わたしがその言葉に責任をもたなければならないとすると、どちらかというとわたしは少なくとも神戸教会の皆さんの前では常に暗い顔をしていなければならない、ということになるかもしれません。しかしそうなると牧師というのは幸せそうな顔をしたほうがいいいのか、そうでない顔をした方がよいのか――。しかし実際の生活の中では、そんな悠長な議論をしている暇はないことの方が多いと思います。“敵を愛しなさい”と言われる。けれど実際には、苦手な人は苦手、嫌いな人は嫌い。憎い人は憎い。こういう想いにどうしても勝つことができず夜も眠れなくなるというのは、しばしば私どもの現実になると思います。
“明日のことを思い煩うな。何も心配いらない。父なる神が、あなたがたのことを大事にしてくださるのだ”という説教をしているこのわたし本人が、たとえば、財布と携帯電話と手帳を無くしたなんてことになったら、一週間くらい何も考えられなくなるかもしれない。おそらく皆さんが感じておられる以上に、わたしは霊的に貧しい方の人間だと、自覚しています。そういうところでこそ、主イエスの言葉を聴くのです。
主イエスが、このわたしに語りかけてくださる――。神﨑伸よ、お前のこころは、ほんとうに貧しいねえ・・・。こころの貧しいひとよ、あなたは幸いだ。天の国はあなたのものだ、と――。そう言われるのです
飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ、その主イエスが、“こころの貧しいひとよ、あなたは幸せなんだ“と言われたのは、“こころの貧しいあなたを、悲しんでいるあなたを幸せにするのは、このわたしなんだ”、という意味でしかないと、わたしは信じております。そう語りかけてくださるのは、主イエス・キリスト――このお方以外に、ないのです。
この主イエスの“山上の説教”。古くは“山上の垂訓”とも呼び慣わされてきましたが、ある日本の説教学者・牧師が、そもそも“説教”という言い方が日本では定着しているけれども、それが果たして適切か、ということを、改めて問い直しています。“教えを説く”と書いて説教。しかしこれはとても誤解されやすい言葉だ、礼拝で語られる説教は、別に教えを説いているわけじゃない。“説教”というよりはむしろ“福音”と呼ぶべきだ、と問題提起をしているのです。週報などに礼拝の順序が示される、そのようなところにも、“説教”ではなくて“福音”と書いた方がよいのではないか(私ども神戸教会はもう、ずいぶん前から、長くそのように記しています。すばらしい!)。もう少し正確に言えば、“主の福音”とすべきではないか、と。
しかもここでは、主イエスの語られた言葉が、問題となります。山上の説教と呼ぶのか、教えとして聴くのか。しかも、とてつもなく難しい教えとして聴くのか。それとも、福音として聴くのか――。わたしは、“山上の福音”と、呼んだ方がよいと、思っております。既にマタイが、先週の日課であった第4章の、23節で、このように伝えているのです。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」。
主イエスのなさったことは教えでもあったかもしれないけれどもその教えは、御国の福音でもあった。“御国”とは、神のご支配のことです。そして、私どもにとって神のご支配とは、“主イエス・キリストが今生きておられる”、“神の愛が今ここに働いている”、“今ここに、そして、いつも、いつでも死をも超えて共にいてくださる(インマヌエル!)”ということにほかなりません。心の貧しいひとに、悲しむ人に、深い、憐れみをもって語りかけてくださる、主イエス・キリストのご臨在――。このお方が生きて共にいてくださることこそ、私どもにとっての福音、喜びの知らせなのです。この、主イエスが生きて共にいてくださることを、信じ抜く歩みを、共に造ることが、できますように――