インマヌエル

イザヤ 7章10~16節   ローマ手紙 1章1~7節   マタイ 1章18節~23節

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(第1章23節)

 このようにマタイによる福音書は、私どもの主であるお方を紹介致します。その名はインマヌエル――神は、私たちと共にいてくださるのだ…

 マタイによる福音書は、まさにこの“インマヌエル”、神が共にいてくださるという恵みの確かさを、その全巻を通して、明らかにしようとしているのです。神は、私と共にいてくださる。あなたと共にいてくださる…と、単純と言えば、こんなに単純な信仰はないかもしれません。ああ…神様が私と一緒にいてくださるんだ。この私と共に――。しかし、この単純素朴な信仰が、私どもの信仰となるために、神が、どんなに丁寧な準備をしてくださったか――。そのことを忘れてはならないと思います。「神は、私たちと共にいてくださる」。

 言ってみれば、たったそれだけのことが実現するために、しかし、神は、何百年という準備の時を必要となさった、ということなのです。この、第1章の23節の言葉は、旧約聖書イザヤ書、第7章からの引用です。今日示されている日課は、この第7章の10-14節までですけれども、第7章の最初のところに、“アハズ”という王様の名前が出てきます。ついでに言いますと、今朝のマタイの第1章の主イエスの系図のところにも、この“アハズ”という王の名前が出てきます。主イエスの先祖の一人に、数えられているひとです。

 時は、紀元前8世紀。つまり、主イエスがお生まれになる、それよりも700年以上前のことです。アハズが治めていたユダの国にはひとつの危機が起こっておりました。周辺の、国との関係が、たいへん、こじれていた、というのです。イザヤ書第7章の2節のところに、「アラムがエフライムと同盟した」とあります。

 アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。…と言うのです。いったいどうなるんだろう… ほんとうに戦争が始まるんだろうか…そうしたらこの国はいったいどうなるんだろう。

 民の心も、王の心も、不安でした。その心は、「森の木々が風に揺れ動くように動揺した」と言うのです。

 預言者イザヤがそのような王のところに遣わされたのは――その不安のただ中に、わたしの言葉を伝えなさい、ということであったと思います。森の木々が風に揺れ動くように、動揺しているその不安のただ中に、伝えるべき言葉を伝えなさい。そこで今日読んだ10節以下です。

 アハズは、イザヤの言うことに耳を傾けようとはしませんでした(10節以下)。しかし、一方から言えばこのアハズの応えは、信仰の筋道に沿ったものであるとも言えるのです。「わたしはしるしを求めるようなことはしない」。それを言い換えて、“主を試すようなことはしない…”あなたが神である証拠があるんなら見せてみろ、その証拠を見たら信じてやるよ、というのは、これは信仰でもなんでもないのです。

 神さまが与えてくださるしるしがあるんだから、それを求めなさい…

 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ書第7章14節)

 このしるしをじぃっと見ていると、“ああ…ほんとうだ。本当に神は私たちと一緒にいてくださるんだ…”ということがよくわかる。しかしこのイザヤの告げた、一人の男の子というのは、いったい誰のことなのだろうか。これは、まったくの謎に包まれています。イザヤ自身はいったいどこの誰のことを予測しながらこのことを語ったんだろうか――。旧約聖書神学者たちはたいへんさまざまなことを想像しますが、結局よくわかりません。そしてイザヤの言葉が紀元前8世紀に語られて、それこそ、700年以上という時を経て、“結局そんなしるしなんかどこにも見つかりっこない…”という絶望の想いもまた、生まれなかったわけでも、無かったかもしれません。700年であります  だがしかしついに、ついに――この、神の約束の実現は、具体的には、マリアとヨセフという、二人の若い男女の間に、たいへん不思議な仕方で子が与えられた、というところから始まったのです。そしてそれがこの二人の婚約者にとってどんなに大きな危機を意味したか――。子が与えられたなどということは、マリアは、どう考えたって身に覚えがない。ルカによる福音書によりますと、それに先立って、既にマリアのところに天使が訪れ、いわゆる“受胎告知”を受けます。マリアもそのお告げのことを、ヨセフに一所懸命説明したと思います。もしマリアがヨセフに対して誠実な人であったならば、その天使のことをヨセフに黙ったままでいたなんてことは、考えられないと思います。

 しかし、ヨセフはそんな説明聞いたって、納得できっこありません。“いったいそれはだれの子どもだ… 聖霊によって宿ったなんてそんなバカな…” でヨセフはだれにも相談することができずに、どんなに悩んだかと思います。しかしどんなに悩んでも結局ヨセフが最後に決断しなければならなかったことは、“マリアの言葉を信じるか・信じないか”ということであったと思います。そして、ヨセフは、“マリアの言葉を信じない”という決断を下しました。それは苦渋の決断であったと思います。しかしやはりこの結婚は、断念せざるを得ない――それがヨセフの下した結論でした。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず――ひそかに、縁を切ろうと決心した」(第1章19節)。

 聖書の定めたおきてによれば、結婚の約束を破るということはすなわち死を意味しました。“石で打ち殺さなければならない”と、申命記に、書いてあるのです。しかしそれがマリアの身に起こるということは、ヨセフには到底考えられないことでした。

 「マリアのことを表ざたにするのを望まず」というのはそういうことです。そこでひそかに縁を切ろうと決心した。事情を一切明らかにしないで、マリアと別れよう。そうすれば、結婚前にマリアが身ごもったのはむしろ、むしろヨセフのせいじゃないか、と勘繰る人もいたかもしれない。そしたら、それでマリアと別れたなんて、非難されるのは自分になるかもしれない。けれども、マリアの命を守るためにはこうするしかない――。

 夫ヨセフは「正しい人であった」とありますけれども、これは正しい人ヨセフにとって、ほんとうにギリギリの選択であったと思います。ただ自分の幸せだけを考えた選択ではなかったのです。そして、ただマリアの幸せだけを考えた決断でもなかったのです。これが、ほんとうに正しいことなのか。これがほんとうに神のみ心に適うことなのか――ヨセフのこころは、まさに、森の木々が、風に揺れ動くようであったかもしれません。けれどもその、ヨセフのこころの深いところに、神ご自身が訪れてくださいました。夢の中に天使が現れて、

 ヨセフよ、恐れることはない。安心して、妻マリアを迎え入れなさい…

 そこで神がヨセフに語りかけてくださったこともまた、まさに“インマヌエル”――。「神が私と共におられる」ということではなかったか、と思うのです。そうであったに違いないと、私は信じます。