主イエスよ、わたしを思い出してください。

聖霊降臨後最終主日 メッセージ  神﨑 伸              

エレミヤ書 23章 1~6  コロサイ 1章11~20  ルカ 23章 33節~43節              

主イエス・キリストが十字架につけられて殺されたとき、ひとりだったのではありませんで、2人の犯罪人が、ひとりはその右に、ひとりはその左に、一緒に十字架につけられました。そのひとりは、主イエスに対して、最後まで悪態をつき続けた。けれども、もうひとりの犯罪人は――これは本人にとっても思いがけないことであったと思いますが――主イエスに対して、信仰を言い表すことができました。死を超える、救いの約束をいただくことができました。第23章の42節、43節です。

イエスよ、どうか、あなたが御国にお出でになるときには、わたしのことも、思い出してくださいませんか――。はっきり言っておく。あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいるであろう。

忘れがたい、出来事であります。

そこで問われるのは、結局のところ、このわたしがこの主イエス・キリストというお方とどういう関係に生きているのか、この十字架につけられているお方と、このわたしがいったい、いかなる関わりに生きるのか、ということです。そういうことから申しますと、ここで、福音書記者ルカが伝えていることは、もしかすると、たいへん意外であるかもしれません。主イエスと一緒に十字架につけられている犯罪人のひとり、それはあなただ…! と――。どうか、あなたもこの犯罪人と同じように、主イエスに出会ってほしい。この主イエスの横に十字架につけられているひとの言葉、これは、あなたの信仰の言葉ですよ…

カール・バルトという、20世紀最大の神学者と呼ばれる牧師が、ある説教の中でこういうことを言いました。イエスとともに2人の犯罪人が一緒に十字架につけられた。この三本の十字架こそ、最初のキリスト教会だ… そう言うのです。たいへん印象的なイメージです。真ん中にイエス様、その右と左に2人の犯罪人がつけられた、これが教会だ、というのです。

ですからまた、別の説教者は、こういうことを言います。画家たちがしばしば主イエスの十字架を描きながら、一本の十字架しか描かないことがある。それは、ほんとうは正しくないのではないか。十字架を書くときにはきちんと三本の十字架を描くべきだ。イエス様は一本の十字架に一人でつけられたことはない。必ずその両側に十字架があるんだ、と。わたしも初めて知ったのですが、教会を建てるときには一本の十字架を立てるのではなくて、三本の十字架を立てるという、そういう伝統が、あるそうです。そのことの意味を、もう少しよく考えた方がよい、と言います。十字架はいつも三本。ここに教会の姿がある。

三本の十字架。そこで問われるのは、いったいあそこにつけられているのは誰か――。このわたしではないか。そして、もっと大切なことは、その十字架につけられたわたしと、十字架につけられているキリストと、その間でどういう対話が起こるか、ということなのです。

私どもは、いつも、ここに立つ度に、自分の罪を知ります。十字架につけられるべき罪人はこの自分だということを知らされます。けれどもそれは、一人で十字架につけられているのではなくて、わたしの隣に、罪のない御方が十字架につけられておられる。

ここで私どもは聖書の読み方を決して間違ってはならないと思うのです。今日のところで、ひとりは悔い改め、ひとりは最後まで罵り続けた。ひとりは天国、ひとりは地獄、さあ、あなたはどっちですか、などと。

ルカが言いたかったことは、決してそんなことではなかったのです。そうではなくて、主イエスを最後まで罵り続けた、もうひとりの犯罪人のためにも、主イエスは、「父よ、どうかこの人をゆるしてください。自分が何を言っているのか、分からずにいるのです。知らずに言っていることなのですから、どうかこの男の罵りの言葉を、責めないでください・・・」(34節)――そう祈ってくださったのです

この、「父よ、彼らをお赦しください」という祈りを、主イエスに対して信仰を言い表すことができたひとりの犯罪人は、その隣で明確に聴き取ったのではないかと、思うのです。この御方の祈りは、このわたしのための祈りだ… と、そのことに、驚いたのではないかと思うのです。いったいこんな祈りを聞いたことがあっただろうか。こんな祈りをしたひとに自分はこれまで出会ったことがあっただろうか ――。

「彼らを…」との祈りの内に、自分もまた、この主イエスの、祈りの中に含まれていることに、気づいたのだと思うのです。だから大胆にこう申し出た。

イエス様どうか、このわたしのことを、思い出してくださいませんか――。

この方になら、きっとこの願いを聞いていただけるに違いない。こんな、祈りをなさったこの方になら、おこがましい祈りもきっと聴いていただけるに違いない。そう信じたのだと思うのです。今しかない。今、言うしかない。今、わたしは神と和解しなければならないのだ。主よ、どうか、わたしの願いを聞いていただけませんか――。そのようにしてこそ三本の十字架は、最初のキリスト教会となりました。

わたくしたちも、104年の歩みの中で、三本どころではない。400本以上の十字架が立ってきました。それがこの神戸教会です。私どもは常に、絶えず知らされてきました。自分もまた十字架につけられるべき罪人であることを。しかも、自分の横に、何も悪いことをしていない方が十字架につけておられることを。私ども犯罪者の只中に主イエス・キリストの十字架が立つそれが教会です。最後に主イエスは、はっきりと、約束してくださいました。43節です。

はっきり言っておく(アーメン)、わたしは今日、楽園にいる、あなたも一緒だ…

主イエスと出会わせていただいた日、神と和解させていただいた日、それが、まさに楽園そのものです。その今日というのは、今、主イエスと共にいさせていただいている、この、今日のことだと言うこともできると思います。

はっきり言っておく(アーメン)が、あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。

いつかあなたもおいで…と、そんなことをおっしゃったことは一度もない。今日、あなたはわたしと一緒にいる。なぜ今日なのか。今日、主イエスが私どもと共にいてくださるからです。今日、主イエスが、わたしのことを覚えていてくださるからです。今日、主イエスが私どものために祈っていてくださるからです。

今日がその日だと気づいたならば、今日の内に、私どもも、“アーメン…”と、こころからの、返事をすべきです。アーメン、わたしは今日、主イエスよ、あなたと、共にいます… と、その言葉を、神がどんなに待っていてくださることか――。このような言葉をわたしたちから引き出すために、ルカはここまで、福音書を書いてきたのだと、わたしは信じます。

祈りを致します。

主イエス・キリストの父なる御神、今日というこの日を感謝いたします。今も、私どもの耳に主の祈りが、響き続けます。「父よ、彼らを赦してください…」と、今、私どももこの祈りを聴きつつ、「主よ、わたしを思い出してください」と、祈る者とさせてください。「今日、あなたは楽園にいる」との約束を、はっきりと聴き取る者とさせてください。主の御名によって祈り願います。