光を消すな

イザヤ書 第58章1-12節   Ⅰコリント 2章1-16節   マタイ 5章13節~20節                    

 コリントの信徒への手紙一 第4章16節に、伝道者パウロの、こういう言葉がある。

 そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。

 この言葉と出会ったのは、まだわたしが神学校へ正式に入学する前、すでに牧師となっていた先輩から送られてきた説教においてなのですが――その説教を読んで、たいへん大きな衝撃を受けました。“自分も同じように言えなければならない”と教えられ、気づかされたからです。しばらく、寝ても覚めても、その先輩の説教の言葉が頭から離れなくなりました。神学校への想いが、ひと際熱く燃えていた時期であったからかもしれませんが、その後のわたしの説教者としての姿勢を、大きく定める、経験になったと思います。「わたしに倣う者となりなさい。わたしのように、生きてごらんなさい…

 そこで改めて問うべきは、わたしに倣う者になり、このわたしを見てください、という時の、そのいったいわたしって何者なのでしょうか。主イエス・キリストに救われた自分、その私っていったい、何者か。

 主イエスは言われました。より原文の響きを生かして訳し直すならば、

 あなたがたこそが、地の塩なのだ。他でもないあなたがたが、世の光なのだ…

 この「塩」という意味を、わたし自身は、“あなたがたがいるからこそ、この世界は、豊かな味わいを得ているのだ”、“あなたがたがいるからこそ、この世界は腐らずに済んでいるのだ”。そうお伝えしたい。「世の光」というのは、 “あなたがたがいるから、この世界は暗黒にならずに済んでいる…”と――。

 しかし、主イエスがここで言っておられる要は、「あなたがいないと困るんだ…」 ということです。

 主は思いがけず、私どものことを高く評価しておられるようです。そこでまず大切なことは、このお方の言葉に驚きながらも、驚くだけで終わるのではなく、自分自身に対する見方を、変えるということです。

 ああ…このわたしが世の光なんだ。このわたしのどこが輝いているんだろう…。けれども、やはり間違いなく、このわたしが、世の光なんだ、と。そして16節では、「世の光」という言葉をなお丁寧に説明するように、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。

 あなたがたの光だ… 他のだれかの光じゃない。あなたがたが光なんだ そのあなたの光は、人びとの前に輝かなければならない。“いやいや…私なんか見ないでください、神さまを見てください”なんて言うわけにはいかない。このわたしが光になる――。しかもその光のことを、「あなたがたの立派な行い」と、いう言葉で表現します。「美しい行い」と訳してもよかったかもしれません。人の目にはっきり見える、美しさです。しかもその美しさを見るとその人を褒めたくなる美しさというよりは、その美しさを与えている神を褒めたくなる美しさである、と。そのために、あなたがたが必要なんだ… と主は言われる。

 驚きながら、うろたえながら――しかしまず、私どもは、“はい、そうです”と、応えることが、求められていると私は思います。“自信を持つ”ということとは、違うと思います。自分で自分に、自信を持つんじゃない。主イエスが私どものことをそう言うふうに見ておられる。そのことを素直に受け入れるということです。

 少しでも経験のある方は、よくわかると思う。身体的あるいは精神的に、ほんとうに辛いときは、ただただ辛いとしか言いようがない。“ただ生きているだけで精いっぱいだ…”ということが、人生の中では、幾度も起こると思います。病気だけではない。ほんとうに種々様々なことが起こる。神さま今私は自分が生きているだけで精一杯なんだ…と。そういう時には、人様のお役に立つなどとんでもない。今しばらく“地の塩 世の光”は免除していただいて――ということになるのでしょうか。決してそんなことはない

 こころの貧しいひとよ、悲しむひとよ、幸せな人というのは、あなたのことなんだ…

 悲しみの中で、困難の只中で、主イエスの慰めを受けるその人を見て、人びとが、“ああ…神は生きておられるのだ…”という事実に気づくということが、起こらないでしょうか――。起こっていると、わたしは思います。そこに、他の場所には見出すことのできない光が輝くということが、起こるのです。

 この山上の説教、第6章の後半まで行くと、「野の花を見よなぜあの花があんなに美しいのか、よく考えてみなさい。栄華を極めたソロモンでさえ、あの花のひとつほどにも着飾ってはいなかった」。

 そこで主イエスは、ただ“すてきだね”と言われたのではなくて、“あれがあなたがたのほんとうの姿なのだ…”“まして、あなたがたの美しさはどれほどのものだろうか”と言われたのです。神に愛され、生かされているこのわたしの姿が、野の花 空の鳥にもまさる美しさを帯びるということが起こるのだと。

 これに先立ち、今日のところで主イエスは、あなたがたは地の塩「である」、もうすでに地の塩になっている。あなたは世の光「である」。もうすでになっている。だからこそ、「塩気を失った塩、升の下に置かれてしまって灯らない光――そんなことは、考えられないではないか…」。そうおっしゃっている。

 あるひとは16節の最初のところをこのように訳しました。

 あなたがたの光は、人びとの前で輝くべきである。――あなたがたの光は、輝くべきなんだ…

 つまり、あなたの光は、輝かなければならない。あなたはもう光になっている。神がそうしてくださったんだ。それは、輝かなければならないから輝いているんだ。それが、神のご意思なんだ――と。

 主イエスがここで見つめておられるのは、その神のご意思です。

 あなたがたの光は、輝かなければならないから輝いているんだ…

 その意味では私どもは、ありのままで生きればいい。無理に肩肘張る必要はない。特別な自分になる必要はない。ありのまま生きればいい。もちろん、その“ありのまま”というのは、神の祝福を受けた、「神に愛された」ありのままの私ども、ということです。

 伝道者パウロは、最初に引用した同じ手紙で、こうも言っているのです。「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」(Ⅰコリント 第4章 7節)。すべて神さまから戴いているではないか――。そのことに気づけ… と。

 ここでパウロは、立派な人間、、立派なキリスト者になれとか、そんなことは言っていない。“ただ、神からすべてを戴いた人間として生きよう… ”と言っているだけです。わたしも、そういう人間です。神からすべてを頂いた人間として生きています。しかしだからこそ、高ぶることなく、卑屈になることもなく、神から戴いたものを、隠すのでもなく、自慢するのでもなく、ただ素直に神の愛の中に立ち続ければいい。

 既にそこに、光は輝くのです。