レビ記第19章1-2、15-18節、Ⅰテサロニケ第2章1-8節、マタイ第5章1-12節(4節)
悲しむ人は、幸せだ。悲しんでいるひとよ、ほんとうに幸せな人というのは実は、あなたのことなんだ。
この主イエスの言葉は、これが語られて以来二千年、多くの人びとを支え、生かしてきました。数えきれないほどの多くのひとがこの言葉によって慰められ、生かされてきたと信じます。それはなぜか――。
これが、ほかならない主イエス・キリストの言葉であるからです!
悲しむ人びとは、幸いである。その人たちは、慰められる。――それは言い替えれば、
悲しむひとよ、わたしはどうしても、あなたのことを慰めたいんだ…! だからわたしのところへおいで。
この、“慰められる”と訳されている、聖書において大切な意味をもつ言葉、元の意味は〈そばに呼ぶ〉という動詞です。主イエスはおっしゃる。“こっちにおいで、わたしのそばにおいで…!”
同じ、マタイによる福音書第8章の5節以下を読むと、またこの言葉が出てきます。このようにある。
さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
この第8章の5節に出てくる「懇願し」というのが、今申しました「そばに呼ぶ」という言葉です。ここでは百人隊長という身分の人が、“主よ、どうかわたしのそばに来てください…! ”その手をしっかりと掴んで離さない。そして懇願するのです。“どうか助けてください。わたしの大切な人が死にそうです…!”
けれども今日のところでは、主イエスの方が私どもに懇願し、“悲しむ人たちよ、どうかわたしのそばに来てほしい…! と。一人で泣いていないで、泣くんだったら、このわたしのそばで泣いてほしい…”と。
このマタイによる福音書第5章の冒頭部分の説教をしたある牧師(ルードルフ・ボーレン)が、その中ではひとつの小説の主人公の姿を紹介しています。深い悲しみに捕えられて、この主人公は大声で泣く。けれどもやがて、その涙が氷のように凍りついてしまう。ついには笑い始める。そしてこう言うのです。
その笑いと共に、神を信じ得ぬ思いが彼のこころに深く入り込み、しっかりと捕えこんでしまった。そして安息が、確かなこころが、やって来てしまった。彼はもはやついさっきまで、あれほどひどく彼のこころを動かしていたものが、何であったかをも、知ることがなかった。彼のこころは、凍えてしまったのである。
悲しみの感情というのは、別に信仰があたってなくたって、だれもが知っているものだ、抑えようもなく湧き上がってくるものなんだと、そう考えることもできるかもしれません。けれども、ほんとうに我々は悲しむべきことをきちんと悲しんでいるでしょうか。流すべき涙を、きちんと、流しているでしょうか。逃げも隠れもせず、きちんとその悲しみを悲しみとしてきちんと受け止めるということを、しているでしょうか――。わたくしは、神を信じていなければ、流れない涙というものも、あると思うのです。
“人生なんかむなしい”と諦めた人は、泣くこともやめるものだと思います。“神などいない”と思えば、その涙は、ひと時流れることがあったとしても、長続きしないということがあると思うのです。しかし私どもの信じる神は、私どもの涙を受けとめてくださる神です(詩編第56編8節)。
神よ、あなたは私の悲しみをすべて記録しておられるはずですね。私の流した涙を、一滴残らず、皮袋に貯めておられますね…と詩編詩人はうたう。この“革袋”というのは、砂漠を旅する人が、生きるための水を蓄えておくものです。神は、私どもの涙を、その飲み物となさる、というのです。
そのことを信じるとき、私どもは、おかしな言い方かもしれませんが、安心して泣くことができるのだと思います。“悲しむ人は幸いだ”というのは、“主イエスのもとで悲しむことができる人は幸いだ”と、言い替えることもできる言葉です。わたしの涙を受け入れる方を知っていなければ、ほんとうに孤独だったら、いくら泣いても何年泣き続けてもむなしいだけです。けれども私どもは、今、神に招かれて、主イエスのそばに呼んでいただいた者です。そこでこそ流れる涙というものが、あると思います。
ヨハネによる福音書の第11章に、“ラザロ”という名前の、主イエスの大切な友が、思いがけず病を得て死んでしまうということが起こり、その彼を、墓の中からよみがえらせてくださったという記事がある。そのとき、そこで主イエスはしかし、“大丈夫、大丈夫、俺が何とかしてやる”と、余裕綽々で、ラザロの墓に向かわれたわけではなかったのです。この福音書はたいへん簡潔に、しかし、きちんと「イエスは涙を流された」と伝える。私どもの信仰によれば、神そのものであられるお方が、その目から涙をボロボロ流されたというのです。このお方にとっても大事な友を喪うということは、悲しいことでしか、なかったのです。
神よ、何故ですか――。なぜこのわたしの愛する友人が、いまここで死ななければなりませんか――。
私どもも親しい者を失い、涙が止まらないというときに、自分のみならず、そういう悲しみに耐えなければならない人のそばに、立たなければならないことがあると思います。しかしそこで私どもは、涙を流してくださった主イエスのお姿を想い起こすことができる。このお方のそばに、私どもは呼ばれているのです。
わたしのそばに来なさい…! 泣いている者よ、独りで泣いていないで、わたしと一緒に泣こう。涙が凍りついている者よ、悲しみを押し隠している者よ…。わたしのそばに来て、わたしと一緒に泣こう――。
しかも、主イエス・キリストというお方は、この方ご自身、死の悲しみを経験してくださいました。主イエスが十字架につけられたとき、そのときにしかし、自分は神の子なのだからといって、別に死ぬことなんか怖くない、などと、これまた余裕綽々で十字架に向かわれたわけではなかったのです。むしろ主イエスはだれよりも、死ぬことを怖がっておられました。十字架につけられる前の晩、悲しみのあまり、もだえ苦しむばかりであったと言います。“父よ、わたしは死にたくありません…!” そうして、“わたしの神よ、わたしの神よ、何故私をお見捨てになるのですか――神さまどうか見捨てないでください…! ”。それこそ、父なる神の胸に顔をうずめその胸を激しく打ちたたくような祈りを、最期になさったのであります。
このお方を神は、三日後に死人のうちからよみがえらせてくださいました。その時主イエスご自身が、悲しみを慰められた者として生かされたということを意味すると共に、私どものすべての悲しみが必ず慰められる、その確かなしるしとなったのです。
皆さんの中でもし、今、十分に悲しむことのできていない、悲しみを押し隠すようにして苦しんでおられる方があるならば、どうか、悲しんでいる人のそばに、行ってあげてください。“泣く者と共に泣きなさい”という言葉があります(ローマ第12章15節)。共に泣くことしかできないかもしれない。気の利いた慰めの言葉なんか一つも、出てこないかもしれない。けれども私どもはそのようにして、私どもをそばに呼んでくださる、“そばに呼びたい”と願っていてくださる主イエスの想いをいささかなりとも、証しすることができると、わたしは信じます。
悲しむ人びとは、幸いである。その人たちは、主イエス・キリストのそばに、呼ばれる――。
呼ばれたならば、応えるほか、ないのです。