恐れるな・・・!

エレミヤ第20章7-13節  ローマ第6章1b-11節  マタイ第10章26節-33節

 「恐れるな」「恐れるな」「恐れるな」――。26節、28節、そして31節と、三度繰り返して「恐れるな」と言われる主イエス・キリストの言葉を、今日の礼拝に与えられた、神の言葉として聴きました。

 改めて考えてみますと――と言うより正直に申せば説教の準備をしながらわたし自身が改めて考えさせられてしまったわけですけれども――「恐れるな…」と言われながら、しかし、いったい自分が何を怖がっているのかということについて、私どもはめったなことでは人には言わないと思います。

 ほんとうにいちばん怖いことについては、なかなか人に、言わないものだと思います。親が怖い。そのぐらいだったら言いやすいかもしれません。子どもが怖い。ほんとうにそう思っている親はなかなかそのことを言えないものです。妻が怖い、姑が怖い、夫が怖い――。“いや、あの人ほんとに怖いのよ”などと冗談で言っている間は、ほんとうに怖がってはいないものです。ほんとうに怖かったら、むやみに人に言うわけにはいきません。だからこそ恐怖というのは、私どものこころを、深く損なってしまうのだと思うのです。

そういう私どものこころを、神はほんとうに心配してくださったし、主イエスもまた、こころから同情してくださったからこそ、主はわざわざ私どもの側に来て、このように語りかけてくださるのです。しかしそれにしても、主イエスの言葉はなかなか激しいものがあると思います。たとえば28節です。

 体を殺しても魂(=命)を殺すことのできない者ども(=人間)を恐れるな

 彼らを恐れるな。その理由は、彼らが出来ることといえばあなたの体を殺すことができる、せいぜいその程度のことだから、と――。しかし、これは、本来人間には口にすることがゆるされない言葉だと思います。ちょっと想像してみてくださったらいいのです。ほんとうに怯えているひとを前にして、わたくしのような者が“まあまあそんなに怖がりなさんな。あなたの体が殺されるだけですよ――”。そんなこと言ったって誰も本気で聴きはしないでしょう。“じゃあお前が殺されてみろ”と、反応されるだけだと思います。

 愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん そもそも、神が私どもの体を軽んじられたことは、ただの一度もないのです。主イエス・キリストの父なる神は、私どもの体を、重んじてくださるお方です。だからこそ、あなたがたの神の毛一本まで数えられている、と、こう言われるのです(30節)。髪の毛ひと筋に至るまで、このわたしの命について責任を持っていてくださる方がおられる。それが、あなたの命の創り主です。私どものいのちの、責任者であります。そのお方の言葉を聴くのです。

 恐れるな、恐れるな… あなたの命については、わたしが責任をもつんだ… あなたの命をお造りになったのは神だ… だから、体は殺しても魂を殺すことのできない者ども(=人間)を恐れるな

 そして、もしそうであるとするならば、そのあなたの命そのものに、指一本でも触れることができるのは神以外にない。本当に恐るべき方も、この方以外にはない。その事実を受けとめた人間は、体しか殺すことのできないものに対する態度も、変わるはずだ、ということであります。

 しかし、考えてみると、よく考えてみると――これは、それこそ恐ろしいほどに、私どもの生活の実情を鋭く言い当てた言葉であると思います。違うでしょうか――。私どもはいろんなものを怖がっているようですけれども、結局私どもが一番何を怖がっているかというと、人間を怖がっているのです。そしてそれは何故かというと、人間は、体を殺すことができるからです。

 “その人間を恐れるのをやめよ”と言われた主イエスの言葉には、考えてみますと――いいえ、というよりも、考えることができないほどの、悲しみが詰まっていると思います。人間は、体を殺す者だ――その人間を恐れるなって言うのです。そして主イエスご自身、人間たちの手によってその体を殺されたのであります。主イエスの体を十字架につけたのは、他でもない、人間であったのです。けれどもここではそのお方が、悲しみを込めて言われるのです。人間を恐れるな…

 ほんとうに悲しいことではないでしょうか――。神が人間をお造りになったとき、その命をお造りになったときに、互いに怖がるために人間をお造りになったはずは、絶対にないのです。神が、あのクリスマスの前夜に、この世界を改めてご覧になって、“この、世界は、もう一度最初から何とかしないと、どうしようもない…”。そしてその神のみ旨に従って主イエスがお生まれになったときに、天使があちらこちらを訪ねて「恐れるな…」「恐れるな…」と、告げたということにはやはり、深い意味があったのだと思うのです(マタイ第1章20節、ルカ第1章30節、第2章10節)。

 人間が、ほんとうに人間として聴かなければならない、神からの言葉が、この「恐れるな…」という言葉であったのです。そのような言葉をどうしても、あなたにも、あなたにもわたしは告げたいのだ、という、神の想いの前に、今静かに立つべきだと、わたくしは思うのです。

 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか――。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない(29節)。

 なぜ主イエスは、雀なんてものを持ち出して来られたんでしょうか。たまたま目の前を雀売りが歩いていたんでしょうか。雀は、一番弱い存在です。一番小さいものです。だがしかしその雀の一羽さえ、父なる神のおゆるしがなければ決して、地に落ちることがない そのような雀のような存在が――皆さんのことです。その皆さんの存在が神の愛の証となるのです。そのわたしたち、このわたしが、

 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみ(=光の中)で言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。あなたが語るんだ――。神に愛されているあなたが、語るんだ…(27-32節)

 すぐに恐れてしまう私どもです。だからこそ主が耳元で、耳打ちしてくださるのではないでしょうか。

 わたしはあなたの仲間だよ… 恐れるな――。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だがその一羽さえ、神に忘れられてはいない。その喜びの事実を、あなたは光の中で告げなさい。あなたは、わたしの仲間ではないか。恐れるな 光の中で、その事実を告げなさい――。

 その事実を告げる、私どもの存在そのものが、光となる、そのような望みさえ、読み取ることがゆるされるのでではないかと、わたくしは信じます。どうか皆さん一人ひとりの、生活の姿が、その語る言葉が、その隅々に至るまで、恐れから解き放たれた者の輝きを帯びるよう、主が、導いてくださいますように――。